そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

Apple信者(だった)

なぜ労働者階級は文字入りの服を着ずにはいられないのだろう。これには滑稽などころか、いじらしくなる心理的な理由がある。〈スポーツ・イラストレイテッド*1、〈ゲータレイド〉*2と書いてある服を着ることで、彼らはいわゆる成功している企業と自分とを結びつけ、さしあたり、いくらか重要な人物となった気分を味わう。(〜略〜)文字入りの服が必要なのは労働者階級ばかりではない。〈ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス〉*3というロゴをつけたり、モーツァルトハイドン、ベートーベンの肖像を刷り込んだTシャツや手さげ袋をよく見かけるが、これは「わたしは難しい本を読みます」とか、「わたしは教養がある」と世間に向かって宣言しているのだ。同様に、中流階級の好きな、大学紋章入りの金ボタン付きブレザーを着れば、インディアナルイジアナ州立大学のような、有名ブランド校との一体感が味わえる。

これについては、僕にもどうかと思うような過去がある。

Apple Computer社(当時)が90年代後半まで使っていた6色林檎ロゴを、僕はあまり好きではなかった。あのうるさい配色のせいだ。Macintoshを買うとリンゴのロゴシールが付いてくるのだが、まるで使いどころがなかった(5、6シートくらいを使わずにしまいこんでいる)。

そこで、子供だった僕はこんなものを作って悦に入った。


単色の自作Appleロゴ入りアイテムである。Appleのあのよくわからないカラーリングは美意識に合わない。しかしそのうえでAppleユーザーであるというアイデンティティを満足させるにはどうすればいいかと考えたすえのことだ。材料は参考書などについてくる赤いプラスチックフィルムである*5

冷静に考えると僕が持っていたAppleに対する思い入れにはたいして理由がなかった。いや、それどころか主体的なものでさえなかった。かつてAppleは「弁護士/医師の25%がMacintoshを使っています」とかいう、Macintoshを窓から放り捨てたくなるほどにどうしようもなく恥ずかしい宣伝文句のポスターを専門店に掲げさせていたことがあった(と、かすかに記憶している)のだが、出版業界は「25%」どころではなく「99%」と言ってよかったはずだ。泡沫出版業者の息子である僕がMacintosh働かされた遊んでいられたのは、親の業務上やむを得ず導入された機材が、たまたまそれだった、ということにすぎない(イタリア映画の『自転車泥棒』のようなものを想像するとよい)。

そんな僕でさえ、Macユーザーであることがアイデンティティになってしまうのである(自分で購入した「信徒」の思い入れがどれほどか、想像するまでもない)。

スティーブ・ジョブズが復帰する前後のAppleは破綻寸前とも言われ、かつてあったとされる輝きはまったく消えうせていた。「Appleは倒れたままなのか?」といった具合だ*6 *7。そのゆえに、小学校のころ僕がMacユーザーであることは嘲笑の的であった*8 *9 *10

そのような迫害の記憶が僕をしてAppleロゴアイテムを作らせてしまったのではないかと思う。滅びゆく者に対する陶酔というか、それとともに殉じる自分を演出するというか*11

とはいうものの――


作ったときは そこそこ見られると思っていたのだが、

やはり今こうして見ると安っぽい。

すごく安っぽい。


ちょうど1年前の記事*12で「CRTのiMac(G3)壊れたー」ということを書いた。1年間いろいろ調べてみたもののお手上げ。これは内部基盤の問題で もはや移植手術しかないと思われるのだが、さすがにそのためにもうひとつ(適当な中古の)同型機を買うつもりにはなれないので、リサイクルに出すことにした。

それで惜別のつもりでうっかり2000枚くらい写真を撮ってしまったのだが、




6色リンゴの時代に比べてはるかに美しい。僕のプラ板工作とは比べものにならない。あのリンゴマークが、光を演出する玄妙な意匠になっていると感じる。

スティーブ・ジョブズiMac初代機(上の写真はデザインを継承したモデルチェンジ機)について「背面デザインさえがWindowsPCの正面より美しい」というようなことを言ったらしい。いまのiMacのデザインは面白みに欠けるというか「単なるディスプレイじゃん……」としか思えないのだが、それはともかくこのようにしてAppleが2000年代以降さらにブランド力を高めていったことは周知の通りで、いまや時価総額世界1位をうかがう企業にまでなった。

いっぽう、iPod――iPhone――iPad――と、Appleが着々と地歩を固めていくのとは反対に(ありがちな話だが)僕はAppleMacintosh)から離れていった。父の死によって、もともと先のなかった出版事務所は「出版業」を廃業し、Macintoshというコンピューターを必要としなくなった。また当のAppleが旧来のOSを切り捨てて新しくUNIXベースのOS Xをリリースする過程で、業務に必要な数十万円単位のソフトウェアや特殊なハードウェア資産はほぼ価値ゼロになった。先の写真のiMacは、ハードウェアはともかくそれらの旧OS用ソフトウェアをかろうじて使えたが、そのiMacも2010年についに動かなくなったわけで。

僕はWindowsPCを買った。大学生活の都合もあって。

どんなに使えないOSかと思ったら、そうでもなかった。

そして現在に至る。いまやWindows7出荷分の1億分の1は我が家にある。宗教を持たない僕にとって、Appleは偶像(のひとつ)だった。親の代から形式的な信仰を受け継ぎかけながら、このように、ちょっとしたタイミングによってそうはならなかった。

そのおかげで、Appleのプロダクトに対して我ながらほどよい距離感が保てていると思う。iPhoneだかiPadだかの発売でアップルストアに行列ができているのを、いろんな意味でにやにやしながら見ている。いま僕はApple製品を何ひとつ使っていないが、「あんなもの、絶対に使わない」というような憎悪・嫌悪があるわけではない。Windowsを使っていて、いらっとすることはいまだに結構ある。細かい所で気の利かないところがある。タイミングによっては、またApple製品を買うにやぶさかではない。

新型MacBookAirの13インチはわりと真剣に検討した。が、Windows陣営がいかにもな後追い規格「ウルトラブック」を始めるようなので、たぶん買わないだろう。そもそもWindowsを使いはじめたことでソフトウェア/ハードウェア資産がWindowsに偏ってきため*13今後も惰性でWindowsPCを購入する蓋然性が高い。とはいうもののiPod touchのカメラ機能がもう少しましになれば、それは買うかもしれない(iPhoneはべつにいいです)。iPod touchを買ったなら、そのコントロールのために再廉価機種のMac miniくらい買うかもしれない。そこでまたMacOS用のユーティリティソフトを買い増していって、さらに何かきっかけがあれば、またApple製コンピューターを本格的に使い出すかもしれない(CELSYS社のIllustStudio相当のペイントソフトのMacOS対応版が出たなら、かなりありうる)。「世界一価値のある企業が生み出す最高の製品を使うコミュニティの一員」とか思うこともなしに。

僕にとってApple製品は「無条件のもの」ではなく、選択肢になった。それが正常な状態なのだ。なにしろLinuxだけでは心もとない。

最近ではAppleが「覇権」になっている面もあるものの――「選択肢」が残っていてよかったと思う。

まさかセガに代わってMicrosoftプレイステーションの対抗馬になるなんて思いもしなかったし。(←まだセガ信者か)

*1:アメリカのスポーツ専門週刊誌

*2:アメリカのスポーツ専用清涼飲料

*3:ニューヨーク書籍批評、月刊誌

*4:板坂元・訳、1997年11月20日 初版1刷72〜74頁

*5:ただしこの写真のファイルケースを作ったのは2000年代に入ってからかもしれない。

*6:このキャッチコピーはセガだが。

*7:そしてセガは倒れたままだったが。

*8:先に書いた通り、Macユーザーであることは僕の選択ではないため、そのような言い草はもちろん誤りなのだが。

*9:そして、僕の反応といえば、ちょうどここで引用されている http://d.hatena.ne.jp/xavita/20110114#p1 山岡のごとし。

*10:また、当時はパーソナルコンピューターの世帯別普及率は30%はいかなかったくらいだったので、クラス30人の29人がWindowsで僕の家だけMac、というようなシチュエーションではない。

*11:当時は公式でもAppleグッズもいろいろあった。キャップとかTシャツとか、ボールペンとかメモパッドとか、時計とかマグカップとか。ただし、例の6色カラーなのでお世辞にもおしゃれとは言えなかった。ただ高いだけだ。

*12:この記事は10月16日に投稿する予定だった。

*13:かつてとは違い「数十万円」ではなく「十数万円」程度だが。