そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

O・ヘンリー「緑の扉」翻訳後記(クリフハンガー編)

■まえおき

O・ヘンリーの短編"The Green Door"(緑の扉/緑のドア)を翻訳した*1

islecape.exblog.jp

翻訳過程で、既存の翻訳の解説や訳注でほとんど言及されていない事柄に気づいた。

もちろん「僕だけが気づいた」なんてことは世の中そうそうないわけで、同様のことを考える人もいたかとは思う。しかし少なくともインターネット上の記事では見かけないため、訳者あとがき的な備忘に残すとともに参考情報として供すことで作品鑑賞の一助としたい。

■まえがき

O・ヘンリーは十年ほどの作家生活で約300編の短編*2をものしたが、未邦訳作品も多い。濫造ともいえるペースで生み出された作品群が必ずしもすべて名品ではなく、したがって作家の上質の作品を収録するなら、おのずと選ぶ作品が決まってしまうという側面もあるのだろう(僕に関して言えば、なんの手がかりもなく翻訳するとトンデモナイ誤訳をしそうだから……というしょうもない理由だが)。

「緑の扉」は、中学の英語教科書(現行の東京書籍『ニューホライズン』三年用など。もちろんリトールド版だろう)にも採用されている短編だ。O・ヘンリーと聞けば誰もが思い起こす「賢者の贈り物」や「最後の一葉」ほどではないものの、題名を聞いたことのある人*3はもちろん、実際に読んだ人もそれなりにいるのではないかと思う。

国立国会図書館の資料などを調べたところ、確認できた限りにおいて「緑の扉」は14名によって訳されている。インターネットで無償公開されている1本(拙訳を除く)を含めれば、少なくとも公に15通りのバリエーションがあることになる。

以下に翻訳者名と初出収録書名、出版社、発行年を記す。

「緑の扉」
・清野暢一郎『オー・ヘンリー短篇集』(岩波書店、1928*4
・飯島淳秀『オー・ヘンリイ短篇集 第2巻』(角川書店、1958)
・中山知子『O.ヘンリ 少女名作全集3』(岩崎書店、1965)
・大久保康雄『O・ヘンリ短編集 1』(新潮社、1969)
・多田幸蔵『O・ヘンリー名作集』(講談社、1981)
・西田義和『オー・ヘンリー名作集』(文化書房博文社、1990/04)
・吉本香代子『アメリカ短篇小説集 ロマン主義からリアリズムへ』(東洋出版、1990)
常盤新平『恋人たちのいる風景 O・ヘンリー ラブ・ストーリーズ』(洋泉社、2009)
・石波杏「緑の扉」(オンライン版、2013年) http://www13.plala.or.jp/nami/green.html

「緑のドア」
大津栄一郎オー・ヘンリー傑作選』(岩波書店、1979)
金原瑞人『最後のひと葉』(岩波書店、2001)
・西本かおる『賢者の贈りもの』(ポプラ社、2007)
千葉茂樹オー・ヘンリー ショートストーリーセレクション〔7〕 千ドルのつかいみち』(理論社、2008)
小川高義『賢者の贈りもの O・ヘンリー傑作選1』(新潮社、2014)
・田中亜希子『新訳 賢者の贈り物・最後のひと葉』(KADOKAWA、2014)

1928年の清野訳(岩波書店)を初訳とすると、日本に紹介されてもうすでに90年もの年月が流れ去ったようだ…

僕がこの作品を初めて読んだのは、新潮文庫の大久保康雄訳『O・ヘンリ短編集(1巻)』の収録分であった。

大久保康雄は職業翻訳の草分けとして数多くの作品を邦訳した人だが、アシスタントかなにかに下訳を任せて流れ作業をしていたフシがあり、いい加減な訳も散見される*5

今回、しろうと翻訳ではあるが、辞書や事典や既訳を見比べながら原文を精読していたところ、先行の翻訳が無視したのか重視しなかったのか、あまり言及されていない観点をいくつか発見した。


僕が参照した先行訳は大久保訳を含め8編なので「残りの7編では触れられているかもしれない」とかいうようなことはありうるし、そもそも「思い込みの激しい僕の勘違い」だったりする恐れなきにしもあらずといったところだが、これを発表することによりたちまち世界が終末を迎えるというような情報ではないし、まあいいかなと。

言及したい事柄は2点あるのだが、物語の結末なども含めて書くので当該作品は一読してもらいたい(ここまでこの文章を読んでくれる人が、肝心のネタ元を読んでいないということもないと思うけど…)。



拙訳:緑の扉(逐語訳した文章に若干手を入れてある)
islecape.exblog.jp



いかがでしたか

まず、軽めの方からいこう。

■「ザ・パリセーズ」はロッククライマーなのか?

まず、拙訳でいうと4パラグラフめ。まえがき段階の一文。

>>中途半端な冒険者は――彼らも勇敢で立派な人たちではあるが――山ほどいた。クルセーズの騎士からパリセーズの決闘者まで、彼らは歴史と小説と、それから歴史小説業界を豊かにしてきた。

この「クルセーズの騎士からパリセーズの決闘者まで」の原文は、単に "From the Crusades to the Palisades"(ザ・クルセーズからザ・パリセーズまで)とだけ書かれている。sadesで韻を踏んだ言葉遊びだ。

オンラインの先行訳・石波訳が「クルセイズ(十字軍)が、パリセイズ(ロッククライミングの名所)にも」と書く通り、the Palisadesはハドソン川河岸の断崖(ハドソン川の河口付近はニューヨーク州ニュージャージー州の州境になっているが、ニュージャージー側では崖になっている)のことらしい。他訳でもおおむね「十字軍からパリセイズにいたるまで」(大久保訳*6)とか「十字軍(ルビ:クルセード)の英雄からパリセード断崖の挑戦者にいたるまで」(田中訳*7)などと訳されている。

O・ヘンリーの死後になるが、映画産業が盛んになると、この崖はロケ地としてたびたび使われ、それが「崖にぶら下がった危機一髪のところで幕引き、次回へ続く」という作劇用語「クリフハンガー」のはじまりになったともいう(当時は「連続活劇」などといって週ごとに短編映画で続き物をやっていた。連続ドラマの先祖といえるだろう)。

だがどうも引っかかる。

O・ヘンリーは「“ザ・クルセーズ” から “ザ・パリセーズ” 」が「歴史と小説と、それから歴史小説業界を豊かにしてきた」と書いている。未開の地を探索する冒険者のドラマが人々の心を打つようなことはあるだろうが、ニューヨーク近郊でのロッククライミング歴史小説業界を豊かにしたと?

そんなことを考えながら英語版Wikipediaの当該項目 *8を見ていたら、以下のような記述が目に入った。

The Palisades were the site of 18 documented duels and probably many unrecorded ones in the years 1798–1845.
(みらい翻訳の訳*9:パリセーズでは18件の決闘が記録されており、おそらく1798年から1845年の間に多くの未記録の決闘があった)

Wikipedia情報かよ、と思われるかもしれないが、とりあえず今回の訳ではこれに飛びつくことにした次第である(我々日本人は先祖が刀を振り回して首を刎ねたり腹を切ったり野蛮な民族と思われているフシがあるが、欧米人もなにかというと決闘している血の気の多い連中である)。それにしたって約50年で「18件だけでなく、たぶんその他にもたくさん」は尋常な数ではない。

今のニューヨーカーに「パリセーズは」と聞けば「ああ、ロッククライミングの」と言うかもしれないが、20世紀初頭のニューヨーカーに「クルセーズからパリセーズまで」と言えば「十字軍遠征とハドソン川の決闘のことかあ」となるのではないか――そう考えたわけである。日本なら「高田馬場」とだけ聞いても「早大生がたむろする?」で終わるだろうが、「(ぜんぜん韻を踏んでないけど)巌流島や高田馬場は…」となれば「ああ、決闘の舞台の」ということになるであろう、と。

とはいえまだそのパリセーズの決闘を描いた小説を発見できていないので、これはだいぶ勇み足のきらいがあるとは思う。しかし物語の本筋には絡まない事柄であるので、ここでは思い切って前例を無視してみた。



さて、以上は単なる前菜にすぎない。


なのだが、これだけでけっこう長くなりすぎてしまった。


まるで「緑の扉」本編冒頭のやたら長い「冒険者の定義がどうこう」いうまえがきのようだ。このままだと本当に書きたかったこと書くべきだったことがかすんでしまうというか、もううんざりして読むのをやめてしまう人もいるかと思うので、ここで一旦記事を分割することにしよう。

To Be Continued...(いまにも崖から落ちそうな絶体絶命のAA略


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※ぜんぜん関係ありません


*1:調子に乗ってマッシュアップ二次創作(未完)までしたが、それはさておき。

*2:別名義の作品や、草稿なども含めれば500編を超えるともいう。

*3:ちなみにこの作品とは無関係だが、そんな名前のオブジェもあるらしい。原題も邦題も、なんとなく響きがよい感じはする。

*4:データベース上ではこうなっているが、よく考えると少し怪しい。O・ヘンリーの本邦初訳は、齋藤昇『「最後の一葉」はこうして生まれた』(2005)によると1920年の「運命の道」ということだが、単行本としては1940年の藤沢桓夫訳『紐育物語』と思われる(これには「緑の扉」は収録されていない。よくわからないので放置)。

*5:「緑の扉」でも、主人公Rudolf Steinerを「ルドルフ・スナイダー」と書いている。Steinerはドイツ系の名字(石=Steinと関係しているはず。「石屋」さんってことか?)で、これは「スタイナー」とするべきだろう。同じドイツ系でも「仕立屋」を意味するSchneiderとはまったく異なる。もちろん「底本がシュナイダーだった」という可能性はあるが。

*6:新潮文庫『O・ヘンリ短編集(一)』大久保康雄訳・昭和六十二年 四十刷改版

*7:角川つばさ文庫『新訳 賢者の贈り物・最後のひと葉』該当作は田中亜希子訳・2014年12月15日 初版発行

*8:2019年6月5日閲覧

*9:自分の訳が正しいかどうか念のため試してみたら、あまりに巧みな翻訳が出てきた…