そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

「中国嫁」の落穂ひろい(一年ぶり二度目)

前回の記事

「中国嫁の差別性」によせて
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome

を書いてだいたい10日後のislecapeです。コメントなどで意見をいただくことももうないようなので、まとめに取りかかろうと思います。

あらすじ

今回の件について三行……は無理だったので、三段落で簡単に解説すると、

まず「中国嫁日記」というタイトルのエッセー漫画があって、この"中国嫁"という題名で「中国+嫁」という組み合わせであるとか「嫁」という言葉そのものに引っかかりを覚えるという意見がありました。そのように、引っかかりの原因を"そこに内包された差別性"などと指摘する意見と、それに対する反応を見ながら、僕は、

「(エッセー漫画ということもあり)Webで可視化された作者の普段の言動も勘案してしまうと、そもそも全体としてちょっと危なっかしい感じもあるけれど、題名・内容を検討するに、この社会において"中国嫁"を"認容しがたい差別のあらわれ"といって排撃するほどではなかろうと思う。そもそも"嫁"にかぎらずそうした言葉はたくさんあり、我々はそれらを日常無意識的に使っているけれども、時には立ち止まって考え直してみることも必要だろう。仮にその結果"差別ではない"という結果に至るとしても、その内省は無駄にはならないのだし、そういう振り返りの機会を与えられたと思えばいいのではないか。だからそんな、ちょっと自分の好きな漫画にけちをつけられたからって、その相手がさも異常な思考をしているとか、とんでもない差別主義者であるとかのように言うのはやめたまえ、未来が見ているから

というようなことを書こうと思ったのですが、ついでに「いい振り返りの機会なんだし」と、僕自身の考えも追求すべく 頭に思い浮かんだことをだだもれさせ(そして、論を展開するに前提条件となる部分をいくつか記述することは忘れ)た結果、ちょっとしたタイミングの悪さから、あれほどまでに読みづらい記事が非常に多くのアクセスを得て*1、その結果といえば だいたいにおいてめいめいが自分の言いたいことを言いあうだけという、Web2.0(とくにはてなダイアリーはてなブックマーク界隈)特有の残念な展開になったという流れです。

白か黒か、ではなく

僕は記事で、「中国嫁」は「この社会において"差別"とまではいえない」と書きました。「差別では、まったく、ない」ときっぱり言い切らなかったために、コメント欄などでも「心の奥では差別と思っているのではないか?」と取られてしまった感もありますが、このことについてはコメントへの返信で、

「差別か、そうではないか」と問われると、「黒」か「白」かの二分法になってしまいがちで答えづらいのです。実際は様々な濃度の「灰」があり、その「灰」のうちどのレベルを閾値とするかが問題で、「これは薄い灰色じゃないかな。まあ"認容しがたい差別"の閾値は超えてないとは思う。ただ、少なくとも真っ白ではないので、自分ではそのことを忘れないようにしよう」というようなニュアンスです。閾値以下の「灰色」を「問題ないから、"白"ってことでいいや」とは言えませんでした。

http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome#c1312551156

と主張しました。「黒か白か」より、「0か1か」のほうが例えとしては正確だったかもしれません。

かつての社会状況ではネガティブな使い方をされたことがおそらくあり、そう呼ばれたくない人もある程度はいた(もしくは、今もいる)であろう「嫁」という言葉に対しては「まあ、"認容しがたい差別"とまでは言えないとは思うけど……」と言葉を濁して言うのが僕の修辞です(僕は「嫁」になる性別ではありませんし、その立場で考えると「嫁は差別でない」と言い切ってしまうことはできません)。なにも「嫁」だけがそうだと言っているわけではありません。他にもネガティブな使われかたをした経緯を持つ言葉はあり、それが日常使われることで、引っかかりを覚えるということもあるはずです。たとえば、自分の身体的特徴、社会的立場、趣味嗜好を誰かが軽く口にしているのを見て、それがまるで属性的蔑称のように聞こえるということはないでしょうか? ことさらに目くじらを立てるほどではないけれども、折に触れてそれが使われてきた歴史的経緯を思い返してもいい語、というような。

「小数点以下切り捨てで、白ってことでいいじゃないか」という人からすればすっきりしないのだろうと思いますが、逆に僕は「(現時点で"差別"としてはほとんど機能しないから)差別ではない」などと言われても「ちょっと単純化がすぎるのでは」と思います。そこに感覚の違いがあるのであって、我々はその一見埋めがたい溝を互いに埋めあわねばなりません。これは勝ち負けの問題ではなく、感覚の違うもの同士のコミュニケーションの問題です。

関連記事:手のうちを明かすということ
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110127/p1

言葉狩り」と言われても

さてそうして「嫁」という語に対する「差別性の検討」を行い、"嫁"という語と差別とみなす人から「なんだ、その日和見な意見は」という文句を言われそうな結論を提示したところ、飛んできたのは「"嫁"を差別とみなす人」からではなく、「"嫁"はまったく差別ではない、なにを考えているのか」と主張する人たちからの「言葉狩り」という意見でした。

これについては、僕がなぜ「嫁」という言葉を「よくないと思っている」のか、まったくうかつにも理由を書かなかったことや、一見すると「中国嫁けしからん」みたいにも読めてしまう記事題名に責任があるものと思いますが*2、しかし、とくだん権力をもつわけでもない、まったく無名のブロガーである僕がちょっと「世間」の趨勢に疑義を呈することが「言葉狩り」であり、態度を改めなければならないというなら、かえってこの社会は何も表現できないのではないかとしか思えません。いまの社会において、僕が何ごとかを指摘することによって、それで誰かの行動を直接的に縛りうるということは考えられません。意見を述べる自由、意見に対して反論する自由は、いまのところ完全に保障されているのです。

ある問題について、世間の人たちの意見が一致していると思えるときに、例外的に違った意見をもつ人がいた場合、世間の一致した意見が正しいとしても、少数派の意見には聞くに値する何かがあって、少数派が沈黙していれば真理のうち何かが失われる可能性が高い。

J.S.Mill『自由論』*3

もしかしたら我々はなにかを失っているのかもしれない、ということを考えています。

涙を拭いて

次に、「嫁」という言葉を意識しすぎている、という指摘もありました。

僕の記事に言及した匿名記事

中国嫁日記は差別的かどうか問題」の辞書的なまとめ
http://anond.hatelabo.jp/20110804093547

などは、

嫁でこれなのですから、女に帚の婦を見た日には心臓発作でも起こしかねない。全国津々浦々の結婚式場で「新婦入場です」のアナウンスがかかるたびに、その言葉の差別性をこんこんと説き起こし説伏する。その果てにしか彼らの心の平穏はあり得ないのです。彼らフェミニストの想像を絶する試練の日々を、私は涙と共に見守りたいと思います。

というように心配しています。

涙で目を曇らせないようにしなければなりません。僕はこの意見には反対で、ちょっと「差別的?」と――あえて乱暴にいえば、多数派からすれば「現代社会の実態に即してない」と思えてしまうであろうと想定できるような――意見を呈されたことに「言葉狩り」「こっちのほうが差別」といったコメントを(人類の文明が続く限り永遠に残るかもしれない場所に)残して、そのままにしてしまうような人たちのことのほうが心配です。僕には人のために流す涙の持ち合わせはありませんが、それでも前の記事はもともとそういう人たちに向けて書こうとしました。それならそれで、もう少し理由を書いたほうがよいのではないでしょうか? と(当為はあれど意欲と能力には欠け、かえって火に油を注いだだけでしたけれども)。

「自由な表現の範疇」の程度とは

「まあ"嫁"という語を使ってもいいだろう」と思う程度に、「まあ"差別"という語を使ってもいいだろう」と、僕は考えました。もちろん「差別」と「嫁」の使用される状況は厳密に検討すれば違いますし、これについては、rag_enさんをはじめとする「相手を"差別"と断ずることが、今の社会において大きなマイナス要素のレッテル張りになる」という意見があり、ある程度の妥当性も感じます。しかし「"嫁"を使うものは差別者」というレッテル張りが現代社会で有効な「攻撃」になるか、という個別条件を検討すると、どうもそこまでとは思えず、「"嫁"を使うという状況に潜む差別性をちょっと考えてみよう」くらいのことを言うのは、先ほどの「意見の自由」があることからも許されるのではないかと考えています。また一方「"嫁"という語を使うことは差別であり許されず、ただちに禁止すべきだ」という意見にも当然反対します。僕はあらゆる表現規制に対しに反対を主張しており、何かを「使うな」と言っているつもりはありません。しかし少しの疑義でもあれば、それを問いかけてみることはします。また、僕自身が問題に気付かず、誰かから問いかけられることもあると思っています。そうでなければ「規制のない自由な世界」の自然状態は惨憺たるものになるではないかと思い、また、そうであるからこそ注意深く内省する必要があるのだと。

自由の世界とは権力的規制の世界より面倒なところであるといえます。しかし私たちの社会はその面倒なほうを選択してそれを誇りにするでしょう

「嫁」字について - 枕流亭ブログ
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20110808/p1

僕はこの意見に賛同します。


「"差別"という語を使うほうが差別」というような考え方は、今回のケースを解決には導かないでしょう。僕は「"嫁"を使うものは差別」は、ただ単に同意しない意見としか見ていませんが、「『"嫁"を使うものは差別』と主張する者こそ差別主義者であり、それは言葉狩りであり、誤りである」という意見については同意しないどころか、かえって自由な言論の阻害に結びつくと考えているので、後者への批判的立場をとっています。「普段なにげなく使っている言葉に対する違和感」を受けて反発する心情は、それ自体を危惧しなければなりません。そうして不快感を覚える自分が多数派であり、自分のその不快を解消するために、異議申し立てをする少数派を排除しかねないとしたら?

先に言及した匿名記事 http://anond.hatelabo.jp/20110804093547 ではこうも書いています。

常識的な日本語感覚を持つ人にとっては、中国嫁日記の方が据わりが良いというのは直感的に明らかなのですけれども。

なるほど「中国嫁日記」は、あのエッセー漫画のタイトルとして「直感的に明らか」にぴったりと僕にも思えなくもありません*4。しかしそれで「これが常識的な感覚」と省みること必要はない……と宣言して、それでよいのでしょうか?

「"嫁"を使ったっていいじゃないか、どうせ反対しているのはごく少数なんだし、我々の直観はこれを自然と感じているわけだし」

そういうふうに考えてしまって。


そもそも何をもって少数とみなしているのでしょうか。どのくらいなら少数と言いうるでしょうか。いやまさか多数になれば制限してもいいというのでしょうか。

「かの偉大なアントニヌスでさえそれをしたばかりに……」

"嫁"という語を「使うべきでない差別である」という主張に同意する必要はありません。しかし「嫁」に対する違和感(たとえそれがまったく同意できない理由からであっても)を訴える意見に耳を傾けない理由を「取るに足らないごく少数の意見」で済ませてしまうのは疑問です(その言葉がどう使われてきたかが問題となろうことを看過して*5「語源がこうで、いまは辞書を引くとこうで」というのでは僕と同レベルですし、そもそもこの考え方は――これはもう誰かがすでに書いていたような気もしますが――「夫婦をテーマにしたエッセー漫画のタイトルには"妻・嫁・奥さん"に関連した言葉を入れなければならない」という思い込みから抜け出ていません……)。

こういうときは、「私はこのような理由により差別とは思いませんでした。この語の使用を規制すべきとも思いません。しかしあなたが引っ掛かりを覚えたことは理解しましたし、心にとどめておきます」こう言って相手の反論・意見を待つしかないのであって、自分の意見を言ったらそれであとは高みの見物ができるというふうに考えてしまうような「自分の無謬性を推定した態度」を取ってしまうことを慎むべきでしょう。

けっきょく僕はなにを見たのか

いったい「嫁」の「差別性」に、なぜあれほどまでに反応があったのでしょうか。エアコンの設定温度が高めでイライラしていたから――とは思いません。といって、ふだん後ろめたく使っている言葉を指摘されて自己正当化をはかるため――でもないですよね。もしかして「"嫁"という語は差別的」という意見が存在することにより、なんらかの損失が生じるから――ということがあるのでしょうか。しかし、そうした論がなされているところに、Twitterなりソーシャルブックマークなりでリンクを張ってわざわざ注目されるようにしているのですから、これも考えにくい?

もしそれが「自分と異なる価値観に対する単純な不快感」であり、「売り言葉に買い言葉」的な反応でしかなかったとしたら。

どうしてもそのように見えました。ほんのひとことふたことのつぶやきでは、それ以上の意図を察することができなかったからです(はたして我々を検証する未来は、もっと忖度してくれるでしょうか?)。「ごく少数」という「意見」に対して、いかにもその申立が、非合理で、被害妄想的で、まったく取るにたらない意見である、ということを印象付けようというような言動に見えて、賛同できなかったということです。

僕の想像力が、このように邪推したのです。

それが間違っていたのかどうか、まだ確たる答えは得られていません。

「そうではない、つまり……」と否定することばを聞きたいと思っています。




(カードを二枚伏せてターンエンド)


論争のいずれの側に与しているかを問わず、その主張の仕方において公平を欠き、悪意、偏執、または不寛容の感情があらわれているような人を、すべて非とせねばならない。

J.S.Mill『自由論』*6

僕の意見が、公平を欠き、悪意、偏執、不寛容の感情を内包しているかどうか、僕自身考えてはいますけれども。



余談

前回記事のよけいなおせっかい言い換えタイトルの「中国出身配偶者日記」は自分で考えたつもりでしたが、言及元のTogetterのはてなブックマークページでb:id:shagさんによってすでに示されていました。

「外国籍(中国)配偶者日記」にすべきだったか / と思ったが、今も外国籍なのかどうか知らないから、「外国出身(中国)配偶者日記」が正解だな
http://togetter.com/li/166146

これは見落としてました。記事末ではありますが、ここで先行者を讃えたいと思います! (いらんか)

*1:ただしアクセスカウンターなどは設置していないので、どれほど読まれたかは不明。

*2:これも二回目のような http://d.hatena.ne.jp/islecape/20100719/p1#c1279544788

*3:岩波訳はやや意図が取りづらかったため、光文社古典新訳文庫版を引用。山岡洋一訳、2006年12月15日初版第1刷 110頁

*4:僕はタイトルのつけ方のセンスがないので、もしかしたら、もっとほかによい題名があったかもしれないという可能性について完全に否定するものではありませんが、その「よいタイトル」をPCに配慮して「中国嫁」より優先すべきとも思っていません。「しなづま日記」でもよかったのです。それよりも、「"しなづま日記"よりは"中国嫁日記"はだいぶマシでしょう?」といった「比較の程度」のフレームに落とし込んでしまうことこそ多数者であれば慎まなければならないと思っています。

*5:言及はしているので、厳密には「過小評価して」のほうが適切?

*6:岩波文庫1998年9月25日第43刷 111頁