宵闇(DUSK)
秋めいてきたころだったか、電車賃をけちった僕はかれこれ三十分くらい歩いていた。まだまだ先は長い。それで節約できるのはたったの数百円である。川向うに見える高層ビルのイルミネーションを横目に、永代橋を渡り終えた。
木陰に隠れたような、それでいてかえって注目を集めそうな公衆トイレは目に入るだけでいつも無視していた。利用することはこの先もないだろう。橋をわたってすぐの横断歩道を横切ったところで声をかけられた。
あたりが暗かったので、はっきりとしたことはわからなかったが、四十かそこらの男性、僕より明らかに年嵩のように思えた。平日に、Tシャツの上から羽織ったカジュアルなシャツで、もちろん裾はジーンズの外に出し、ヘアスタイルもわりとこざっぱりした感じ。ごくふつうの格好だった。彼はお金をなくしてしまった、と言った。
そして、電車賃を貸してもらえないだろうか、と。
貸して?
先を急いでいるところを呼び止められて、すこし苛立っていた。つまり返してくれる気はあるわけですか――そう意地悪く言葉じりをとらえようとして、思いとどまった。あのことを思い出した。
高校のころ、地下鉄のホームで電車を待っていたときのことだ。すぐそばの階段から下りてきた、お世辞にも清潔とは言いがたい小柄な老人が僕を見上げながら言った。
「にいちゃん、電話したいんだけど、200円、貸してくれんか」
「貸して――?」僕は財布に手を伸ばしながら言った。「それは、本当に『貸す』と言うことですか。それとも遠回しに『くれ』と言ってるんですか。電話ならテレホンカードを持ってますけど――」
老人は、「いや、いいや。やっぱいい」と言うと、のろのろと僕から遠ざかっていった。
階段のむこうに消えた老人を見送り、取り出しかけた財布を戻しながら、僕はひとり苦りきった。いったい自分はどうしたかったのだろう。本当は電話代じゃないと認めさせたかったのか。200円を施すかわりに、あの老人に三べん回ってワンとでも言わせたかったのか。
男性は、北千住まで行ければつくばエクスプレスの定期があるからどうのこうのと言っていた。要するに買い物でもし過ぎて手持ちがなくなったんか、というようなことを思わなくはなかったが、僕は財布から100円玉を三枚取り出した*1。
「日比谷線に乗るなら、そこの橋を渡って、もう少し行ったところに茅場町駅があります」
必ずお返しする、と男性は言ったが、僕は「それには及ばないので、寄付でもなんでも好きなように」などというようなことをゴニョゴニョ言いながら、彼が礼を言うのもろくに聞かず、その場を離れた。
こんな、見るからにお金のなさそうな僕に声をかけるなんて。よほどの恥知らずか、さもなくば本当に難儀しているのだ。
過去のふるまいを思い返し、なんとなく足早になる。男性と話しているあいだに横を通って行った女性をふたり追い抜いた。
自分の孫世代にあたるような子供に、あの老人はどういう思いで200円をねだったのだろうか(そんなことは彼にとってはもうなんでもないことだったのかもしれないが)。貸すとかあげるとか、それを何に使うのかどうかとか、僕はどうしてそんなことにこだわったのだろう。べつにその200円でカップ酒を買われたって別によかったのだ。
それでお人好しさを肴に笑われたって。
cf. http://islecape.exblog.jp/10516543/
*1:あとで調べたら実際の乗車賃は190円だった。