そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

手のうちを明かすということ

当たり前のことだが、この世界に自分と同じ人間はいない。

たとえ「遺伝子がまったく同じ」という一卵性双生児であっても、100%同じ経験はしない。遺伝子は同じでも、その生育歴が双子をまったく別の人格に育て上げる。

生活上の好みや些細な癖から、政治信条・信仰する宗教まで、どんな少数派であろうと「考え方が近い」人というものは、もちろんそれなりにいる。特にインターネットがその傾向を加速させたというが、同じものを愛好する人は、どんなマイナーな分野であろうと存在し、そのものの愛好者として居場所を見つけることは、難しくなくなってきている*1

だが「自分と(まったく)同じ人間」は、やはりいない。


Webでの沈黙は「非存在」と同義で――単に新聞やテレビの代替など情報入手手段として利用するならともかく――ソーシャルメディアにおけるROMに「存在感」というものは決してない。必然的に、なにかしらを表現することで、それでようやく地歩が固まる*2。とはいえ、表現するということは共感を求め呼びこむ作用であると同時に、「自分」というものの内面を明らかにし、彼我の「違い」を際立たせる行為そのものでもある*3(文章に限らず、「絵」や「音楽」でさえそういうことがあるのだが、このダイアリーはテキスト中心のブログなので、文章のことを念頭に話を進める)。


僕がWebでものを書きなぐるようになって、そろそろ三年。もうすっかりはてなダイアリーに落ち着いた感がある*4 *5。いま思い返して驚くべきことに「トラックバック」(言及通知)の意味もろくに知らなかった時代が、僕にもあった*6。車がびゅんびゅん走っていく、わりと危険なブロゴスフィア*7でのよちよち歩き(あるいは、はいはい)の時期は終わり、三輪車で遠出をするようになり、さらに自転車に乗り換えていくらかスピードを出せるようにもなりしばらく自転車を乗り回して、これでようやく補助輪も外れたような気がする。「3歳」でこれならまあ上出来だろう。

一方そうした自分の満足と裏腹に、僕の三年間が誰かを怒らせたり、傷つけたり、失望させたりというようなことが相応にあると思う(こんな場末のブログでも、多少なり記事が読まれることはあった)。もっとも、怒った人は何人かいるが、傷つけたり失望させた人はただ去っていくだけだろう。はっきりそう言われたことがないので実際のところ確証はないけれど、ちょっと親しげにしていたのが疎遠になった人はいて、といってそれはただ単に先方の活動の都合かもしれず、確かめる術なく悩ましいときもある。「なにに不満があったか」なんて、この状況では聞けないわけで(また、なんとなく「この人は僕を嫌っているな」という人もいるが、「あなたは僕のことが嫌いですね、うっかりフォローして気分を害されないよう念のため」などということをいちいち尋ねる無謀さはさすがにないので、これまた実際どうなのかは闇の中)。僕自身としても、自分が活動する範囲のWebソーシャルネットワークですれ違う人たちが普段どういった発言をしているかくらいは見ているので、「これを書くと、この人は気分を害するかもなあ」と思うようなことはある。しかしけっきょく投稿している。そしてそれで繊細な蚤の心臓のために心苦しさのあまりあとで「うぐぐ」となる。まあそれは仕方ない。


先日、「表現の無制限な自由」について自分の個人的な意見を書いたが、どうだったろうか。あの時点で「表現の無制限な自由」を肯定するについて思いついたことはとりあえずひととおり書いた。考えたことの羅列で文章としてはかなり読みにくいし、また、書き忘れていたことやオミットした部分*8があったり、論としてきわめて不完全なものではあるのだが、「議論」に勝とうというのでもなければ、まして文章技巧の誇示が目的ではない。もちろん読みやすい文であればそれに越したことはないだろうが、あのときはそれができなかったという程度のことであるわけで、書くことそれ自体によって自分の考えていることがなるべく相手に伝わるように(限られた時間ではあったが)必死に頭を働かせたり、「そういう時とっさに思いつかない主張の書き忘れ」が出てくることに自分で気づいたり、僕自身が想定する「表現の無制限な自由」というものの、ある一面での限界もおぼろげに浮かび上がったり、少なくとも自分にとっては効用があったし、「ああした考えを持つ有権者が、社会にひとりは存在する」という事実の提示ぐらいにはなっているだろう(あれが誰かを教化するなどとはもちろん思っていない)。その「結果」が、ああした考えを批判する人にも同意する人にも吟味され、次に出てくる時もうちょっとはましな文章の登場につながることもある(といいな)。

「表現の無制限な自由」以外にも僕にはここで書いていない(それほど大っぴらにしていない)思想や信念がある。そしてそれはある人によっては受け入れがたいものだろうと思う。そして、そうは思っているのだが、早晩書くであろうと考えている。なぜといえば、僕は「あなた」ではなく、また「あなた」も僕ではないから。僕が(あるいは「あなた」が)書けば書くほどに「溝」ができるのは、宿業のようなものでしかない。

「顔も見たくない」というなら、互いに踵をかえして、歩み寄るというのもありだろう。そうして歩み去った二人が星の反対側で出会ったり、あるいは一方がその場にとどまり、もう一方が立ち去ったとして、いつの日にか立ち去ったものが、いつのまにか残ったものの後ろに立ち、一緒に溝を眺めるというようなこともあるかもしれない。

しかしそもそもそこにできるのは、「溝」だけではないように思う。

ふたりの間に「溝」を作った言葉は、本当にただ勤勉に「溝」を掘るだけだったのだろうか。そこにできた「溝」に、別の言葉がなにか「共通の趣味」という「橋」をかけて通じ合うことがあるかもしれない*9

もちろんできあがった「溝」が橋脚能わぬほど深く広いということはありうるが、吊り橋にしようとしても手がかりさえないような状況で、にらみあって動かずただ日が暮れていくような状況があったとして、しかし冷静に一歩引いて見れば、「溝が無限に広がっているわけではない」という事実を発見することもあるのではないか。「溝」に沿って互いに歩み進んでいったとき、あるいはその「溝」の終わりにたどり着くかもしれない。*10

おそらく誰かにとっては橋の材料になる――しかし別の誰かにとっては溝をひたすら掘るモグラかなにかにしか見えないような言葉を、とりあえず投げる。それでとどめず、別の言葉が別の作用をもたらすであろうことを期待して、それも投げる。もちろん「ずっと俺のターン」では意味がない。場の手札をできるかぎりオープンにして、それでターンエンド*11。あとは待つ。

少なくとも僕は、僕が投げた言葉を受け取ろうという人を信頼している。その人がどういう考えであれ。



(翻って、僕自身は信頼される受け手であるだろうか?)


※例によって推敲せず投稿のため「同じ接続詞の繰り返し」が多々見られるので後悔しながら修正。最終更新日時2011年1月29日午後4時35分

*1:それによって、専門誌が休刊に追い込まれるという話も聞くけれども

*2:はてなスターの付与やWeb拍手であろうと「表現」には違いない。他の活動に比べれば印象は薄れるが

*3:というのはどこかで書いたような気がするが、このダイアリーではなかったはず……

*4:例によってこれはもう書いたような気が以下略

*5:そもそも独自ドメインでホームページくらい持とうと思いつついまだ借家住まいというのは絵描き属性を持つものとして少し引っかかるが、それはさておき

*6:こんな単純なシステムを、なぜ複雑怪奇な仕組みのように思ったのか、「経験のなさ」というものはまったく頼りのないものである

*7:え、死語?

*8:自説に有利/不利というような理由ではなく、<すでに別の場所で書いてあるため、僕にとってはいちいち書くまでもない「前提」にすぎない>ようなことがらなど。ただでさえ冗長な文がより散漫になってしまうことを恐れてのことだが、ただ、それもあくまで僕自身の勝手な判断であるため、本当はいちいち書くべきだったのかもしれない?

*9:お客様の中にトランスフォーマーを集めている方はいらっしゃいませんかー

*10:そこで「ようやく手が届くようになった」と殴り合ったりするということもあるかも……ところで、「かもしれない」って何回書いた?

*11:ん、すべった?