「人生とはこういうものでしょう」
冬は好きだが、寒さを覚えて古傷が疼く季節でもある。
その疼痛を増幅させるような話を聞いた。「歩道を走る自転車と歩行者の事故」が目立つといって、警察が「自転車は原則として車道を走る」よう指導を徹底する方針らしい。あらかじめ断っておくと、僕は「自転車が歩道を走ってなにが悪い」と主張するものではない*1。むしろ小学生の時分から車道を走る自転車乗りであった。
それで事故にあってしまう。
小学生のころ。眼科で初めてコンタクトレンズを処方された帰り道、自転車で帰宅する途中だった。進行方向に合わせて左車線を走行し、車道と歩道が明確に分離していない(ガードレールのない)狭い道路に駐車されていた軽トラックを避けて通りすぎようとしたとき、軽トラックのドアが突然開き、非常に悪い偶然で左足膝上に裂傷を負った。さらに、右側に吹き飛ばされたにも関わらず(左利きのため)とっさに頭をかばって出たのが左手だったので、折れた(おかげで、コンタクトレンズを買ったばかりだというのにそのあと眼鏡生活に逆戻りした)。
なにごとも経験とは言うが、あまりいい思い出ではない。跳ね飛ばされたあと恐る恐る傷口を見ると、血はたいして出ていなかったが「これは迷路ですかそれとも脳味噌ですか」みたいな風貌の皮下組織が露出していて、気が遠くなった。「救急隊員に抱きかかえられるなどという醜態は見せられない」と強がって立ち上がるも、人の手を借り足を引きずって数歩、ストレッチャーに倒れこむのがやっと。僕はもともと危機察知能力が低く、いろいろ痛い目を見ているが、これが今のところ肉体的には一番の大ダメージであった。全治一ヶ月。
事故のあとの交渉ごとは僕ではなく、保護者である父があたった。路上駐車でもあり、周囲を確認せずにドアを開けたのでは、職業運転手としてかなり不注意である(軽トラックを大きく避けなかった僕の落ち度もあるのだろうが)。しかも業務中であった。「いくらでもせしめられるぞ、弁護士の友達もたくさんいるから」と、父は言った。しかしなにしろ喧嘩っ早く、見た目がやくざみたいな人である(僕自身、幼稚園のころは暴力団員かと思っていたくらいなので)。脳裏に浮かんだのは、同じ年頃の子供がいるとか聞いた気弱そうな運転手の人が家族とともに路頭に迷う姿だった。「いいよ、お金なんか、いらないから……」と言うしかなかった。
それからどうなったかのか、どうやら保険会社と父との交渉になったようだ。5年ほどあと、父の遺稿を整理していたとき、保険会社の担当者にあてた手紙の草稿の断片が混じっているのを見つけた。それを見るに、入院治療費は当然として、家族が看護にあたったことによる逸失利益の弁償と、いくらか慰謝料名目のお金が提示されているようだった(払われたのか払われてないのか、その慰謝料、僕もらってませんけど)。
そして傷は癒えた。折れた左手もちゃんと動くようになった(絵はそれなりに描けます。字は下手ですが、それはもとからです)。脚の傷のほうは皮膚組織を大きく傷つける深い裂傷ということもあり(もしかしたら医者の施術の問題もあったかもしれないが)かなり醜い傷跡として残ったものの、「男の子だから」かなり軽く見られたらしかった。半ズボンは履かなくなった。僕が身を呈してかばった(?)トラックの運転手が今どうしているかは知らない。
この一件は平静になり、僕の傷が以後なにがしかの問題として「表面化」することはなかった。事故によって僕が自転車恐怖症になるということもなく、その後、10代なかばくらいまでは自転車で東京中を走りまわったりしていた。最近は乗っていないが、それは、日本は自転車に乗るための環境が整っていないと感じ、「リスクを取れない」と、多少分別がついたからで、肉体的な問題ではない。
事故のとき、もし後ろから車が走っていたら轢かれていただろうが、そうはならなかったわけだし、世の中にはもっとひどい目にあう人もいるため、「"この程度"で済んだ」といえばいえる。のだが、それでも僕の人生は変わった。
そもそも入院生活は退屈で、運動もできずストレスが溜まった。長い入院生活により、すっかり病院嫌いになった(それにより将来なんらかの病気の発見を遅らせることはあるかもしれない)。男の子にときどき見られるような「看護婦」への憧れというものを持ったことはなかったが、むしろかえって苦手になった。点滴の針を間違ったところに注射されたりもして、それで死ぬところだったし(←誇張)。
おまけに一ヶ月も学校を休んでいたので、すっかり落ちこぼれた(←もとから)。
しかしなにより、脚の傷が、文字通り僕の足を引っ張っていると意識してしまうことが、たびたびある。
僕は1時間程度の距離であれば、電車が空いていても座席に座ることはないし、それで疲れるということもないのだが、立っているとき、左脚の傷がとつぜん意識に上り「つらい。座りたい」と思ってしまうことがある(ただし我慢して立ってはいられる)。また、数時間歩くことも苦にはならないのだが、左脚が歩き方を忘れたようなイメージを覚え、気づくとすり足のように足をひきずっていることがある(階段を登っている最中に突如「階段を登る方法」を忘れそうになることもあるのだが、これが過去の怪我のせいかはわからない。ただ、そのときに傷はかなり意識している)。
こうして過去の事故について思い出すとき、左脚の傷が激しく自己主張を始め、まるで自分のものではないような感覚になる(痛みではなく、なんともいえない違和感がある)。もうちょっと具体的に怪我の状況を描けなくもないのだが、どうも気が散っていけない。
そういうわけで、路上駐車されている自動車を見ると不安になる。警察が「自転車は車道を走るよう指導を徹底する」というのを聞くと、「自転車と歩行者」の問題で自転車を優先しては歩行者にしわ寄せがあることは理解しつつも、僕と同じ目にあう人がどれほどか増えるのではないかと心配になる。
あの事故から何度もの冬が過ぎた。
このさき何十年もこの傷の疼きを抱えて生きていくのだなあということを思うにつけ、タイムマシンに乗って「お金なんか、いらないよ」などとかわいらしいことを言ってしまう過去の自分をひっぱたいて黙らせ、父と一緒になってこの心理的負担に対する賠償をせしめておくべきだったか、いまから申し立てても面倒だろうしなあ、とか考えてしまうので人間というのはじつに変わるものである。
こんな感じ。*2
保険会社の人が、自転車が壊れたならそれも弁償の対象になるが、といってきたことに、父はこう書いている。
自転車の損害は軽微でした。ご懸念には及びません。自転車が破損して、彼が無事であれば何の苦労もなかったわけですが、人生とはこういうものでしょう。
そう、人生とはこういうものなのです。
おわり