そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

発言と責任

ミルクを渡されて


首をかしげ臭いを嗅ぐ人がいる

そのまま冷蔵庫に戻す人がいる

製造元に問い合わせる人がいる


そしてこぼす人が出てくる

拭き取ろうとする人はいるが、落ちきるものではない


それよりも拭き取っているのがこぼした本人でないのはどういうことだ


もちろん不注意でなしに、ミルクをこぼす自由はある

しかしその結果を引き受ける覚悟はあるのか

ましてやぶちまけるなど

多くの状況では、決定的な検証を行う機会はまったくといっていいほど生じない。ある種の流言は、すでに当然のことと受け入れられている観点から見るときわめてもっともらしくみえるために、もはや検証の必要はないとみなされる。怠慢から新しい定義がそのまま受け入れられて合意が形成され、その解釈が反駁も否定もされないというただその理由だけで確認される。人々は、ものごとが一般に信じられているという理由だけでそれを信じ込んでしまう。こうして、ある種の流言は決して行動によって検証されることなく存続し、一般的信念となっていく。


興奮してお互いに話し合うにつれて、彼らはさらに関心の対象に心を奪われていく。もちろん、すべての人々が批判能力を弛めてしまうわけではないが、疑問の声をあげ続ける人は場違いに感じられる。(中略)たとえば、被疑者に本当に罪があるかどうか疑う人は、リンチが実際に行われるずっと前に離脱してしまう。こうした人もしばらくのあいだ議論を続けるが、その努力が空しいこと、またおそらく危険でさえあることに気づくと、群集から離脱したり、その周辺に居残って静観しているのである。(中略)意見の相違に対する非寛容さも増大し、支配的ムードに同調しない人々は自分から引き下がるか、あるいは排斥されてしまう。それゆえ、メンバーの自動的選択はたえず進行している。


人々がある解釈を受け入れると、その解釈に基づいてさまざまな意志決定や外敵行動を行うようになる。協同的行動のパターンが発達するにつれて、これに同調しない人はのけ者扱いを受ける。人々はひとたびある定義を受け入れると、懐疑的姿勢をとり続ける人に対して集団的制裁を加えるようになるのである。ジャニス(1959)によれば、人は自分の認知方向づけをいったん再構成してしまうと、それを否定する情報を無視あるいは回避し、また反証があるときにはそれを曲解する傾向がある。そして、自分に協調させるか、あるいは少なくとも自分の行動を理解させるために、他人の考えの枠組みを変えようと試みる。これに同調しない人は嘲笑され、場合によっては暴力さえ加えられる。なぜ考えを変えないのかが問題にされ、異端者扱いを受けるのである。かくして、流言を公然と受け入れること自体が、集団に対する忠誠のシンボルとなっていく。集団のこうした圧力に耐えられるのはごく少数の人であり、内心ではそれを信じていない人でさえ外面的には黙従した行動をとる。こうして、ある方向がひとたび決定されると、制裁を加えることによって不一致をなくそうとする傾向が生じるのである。

cf.

妖怪「分かって言ってる」 - 徒労の雑記
http://d.hatena.ne.jp/toroop/20100408/p1

デマと訂正情報 - good2nd
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20100409/1270791482

*1:広井脩訳、1985年

*2:引用段落の順序は引用者による