そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

相対的多者におびえる、分断された絶対的多者

時々労働者が勝つことがあるが、ほんの一時的にすぎない。かれらの闘争の本当の成果は、その直接の成功ではなくして、労働者のますます拡がっていく団結である。この団結は、大工業によって作り出される交通手段の成長によって促進され、異なる地方の労働者はそれによってたがいに結合される。そして、各地の一様な性格をもった多数の地方的闘争を一つの国民的な、階級闘争にまで結集するためには、この結合があればそれでよいのである。しかし、あらゆる階級闘争は政治闘争である。ろくな路のなかった中世の市民にとって数世紀もかからなくてはできなかった団結も、鉄道を用いる近代プロレタリア階級は、これを数年にしてなしとげるのである。

カール・マルクス、フリードリッヒ・エンゲルス共著『共産党宣言 *1 

さらにいまはWebがある。団結するのも簡単だ。「場」としては、コミケ以上にメーデーが正念場だねえ。


たぶん、派遣労働者に対する契約解除が控えている年度末に向けての牽制のつもりなのではないかと思ったのだが(考えすぎだろうか……)、こんな記事があった。

偽物に偽善者が振り回された「年越し派遣村プロパガンダ」空前のアホらしさ - @niftyニュース*2
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20090316-01/1.htm
※以下の引用はすべて上記のソースによる

最近、何十本とエントリを書いては、どうも気に入らず保留箱に投げ込んでいたので、ちょっと乗っかってみた。

年末年始の話題を独占した「年越し派遣村」。紛争地域の難民キャンプさながらの深刻さで報道され、全国から義援金が集まり、多くの人が生活保護を受けて一件落着したこの「美談」に、違和感を覚えた人も少なくなかったのではないか。

というリードは、記事の著者である勝谷誠彦氏のものではないが、非常によろしくない。どうも揉み手をしながら媚びを売る人の姿を思い起こさせるではないか。まあ、誰に向けて書いているかはよくわかる文ではある。つまり「違和感を覚えた人」だ。そもそもSAPIOがそういう雑誌なのだ。もちろん本文のレベルに合わせたのだろうというような侮辱的な想像はまったくしなかったけど。

と、軽口はさておき――

まずはじめにたっぷりと褒めておく。あの『年越し派遣村』の馬鹿騒ぎは、ある勢力が仕掛けた作戦としてはまことに秀逸だった。プロパガンダとして成功しただけではなく、額に汗して働く良民常民が納めた税金の中から、カネを強奪していくことまで達成した。

「まずたっぷりと褒めておく」という言葉は滑りぎみだ。今どきこんな書き方をして面白がることができるのは書いている本人だけだろう。「良民常民」というのも実に上から目線ではないか。派遣村への反感を呼び覚まそうというにしては、なんだかうまくないと思った。たぶん、そういう呼ばれかたをしても怒らないような人を味方につけたいんだろうけど。

国会周辺をデモした時は、ドサクサに紛れて「憲法を守ろう」と大書された街宣車も一緒に行進し、マイクを握った女性は「消費税値上げ反対」とまで叫んでいた。もう味噌も糞も一緒である。

表現はともかく、これはある意味よくわかる。保守も革新も「あるべき右派(左派)の姿」という、なんだかよくわからない型を規定して、しかも自分がピッタリ型にはまることを誇り、ちょっと規格外の「味方」になりうるものを異端あつかいする、というようなことがあるようだから。

しかしまあ、そう批判することは「村」に集まった人の知性を侮辱している、と見れないこともない。助けてもらったことを恩義に感じたからといって、救護者の政治思想に同調しなければならない道理はないのだ。もしそうなら、保守派は数を頼んで明日にでも炊き出しの準備を始めるべきであろう。でも、右も左も必死に水の甘さを競ってホタルを呼び集める光景というのはちょっと嫌だな。

押しかけた連中に千代田区が支払った生活保護費は総額3000万円近いらしいが、国民にこの国の現状を認識させる授業料と思えば、まあ呑めなくもない。

千代田区議が海外視察でゴルフとかなんとかいうような話もありましたな。区民に区議会の現状を認識させる授業料か。それはともかく、3000万円ねえ。そりゃ呑めなくはないでしょう。その千代田区の負担を仮に国民が負うとしても、ひとりあたり25銭(それとも勝谷氏は千代田区民なのだろうか)。この一連の流れで仕事を得た著者の原稿料ははたしておいくら、というのが気にかかるというかなんというか。それにしても、こういうときに「授業料」とかいって強がる人が多いけれども、ちょっと矛盾した感じを受ける。実際のところ「あいつらは3000万円もの『大金』を――お前ら『良民常民』の税金を――浪費しているんだぞ!」と焚きつけている(つもり)というのに。「授業料」というより、「良民常民」の反感を煽るための「必要経費」なんて思っているんじゃないかなと。

このあと勝谷氏による「派遣村主催者の戦略が図に当たるの巻」の解説が入るが、「空前のアホらしさ」とするのは個々人の意見だし、意地の悪い物言いはともかく、まあそれなりに妥当な「まとめ」だと思うので略す。言及先参照。

さて、

自治体の窓口ではこれまでギリギリの予算の中で、担当者が善意と法の板挟みになりながら、生活保護の認定をしてきた。それが曲がりなりにも「ルール」だった。しかし今回、500人いた『派遣村』の人々のうち約280人に生活保護が認められた。衆を頼んで行けば認められるということになれば、路上生活者たちは役所の前で待ち合わせて、窓口へと押しかけるようになるだろう。いっときの「偽善」のツケは大きいのだ。

このルール厳格主義はどうにかならないのだろうか。ならば「健康で文化的な生活」というようなルールはどうなっているのか(勝谷氏については存じ上げないけれど、ルール厳格主義者のなかには「憲法はルールとしておかしい」とか言い出す人もいるのだから困ったものだ)。現下の経済情勢、予算・人員の貧困など、現場の苦労はいかばかりかとは思うが、ちょっとゴネて不正受給していた人もいたしなあ。もらえる資格のある人が衆を頼もうがどうしようが、僕らには何も言えないだろう。それがルールじゃないのか。そんなに言うなら「ホームレスは死刑」というルールでも作るか。

派遣村』そのものは「偽善」ではない。「偽」である。そもそも『派遣村』という名前が日本語としておかしい。敢えて言うなら『派遣を切られた失業者の村』でしょう。しかもそれも「偽」であることが、泊まるだけ泊まり、もらえるものをもらったあとで支援者側から発表された。アンケートに答えた354人のうち「派遣を切られた」人は73人に過ぎなかった。わずか2割である。

「日本語としておかしい」論は言いだしたらキリがない。「派遣村*3という名前から「派遣契約を解除された人だけしか救わない」というルールを勝手に導き出して、しょうもないツッコミをするのはどうだろう。これもある種のルール厳格主義か。「名称と実体の乖離に腹が立つ」という気持ちはわからないではないが、今回の場合、それくらい大目に見てあげたらどうですか。2割の派遣契約を打ち切られた人が救われ、そして残りの8割も――寄る辺ない人がそれほどいるのだという事実があるわけだ――また(ほんの一時的に)救われたということに対してはなんとも思っていないのだろうか。

野党の連中は日比谷公園で「これは政治災害だ」と叫んだ。だったら、そこにいる人々には何の落ち度もないのだから堂々と顔を出してもらうべきだ。地震や台風のどの避難所で顔を隠す人がいるだろう。この事実が私は『派遣村』騒ぎのいかがわしさをもっとも象徴していると思う。

これはあらゆる意味でいただけない。野党の連中の「政治災害」というような言いかたの妥当性はともかく(戦犯探しをすると、けっきょく、「行動力のない行政」→「判断力に問題がある政治家」→「そんなバカを選んだバカな有権者」とブーメランが帰ってくるから、ぼかした言いかたにしたんじゃないかと思う)、要するにこの人たちの苦境は人災であって、被災者というより犯罪被害者のようなものではないか(そもそも、僕は被災者が集会所でぐったりしている姿を報道するのだってどうかと思っている)。自分には「何の落ち度もないのだから堂々と顔を出し」、政治の不条理を訴える人がいるなら、じつに立派な態度だと思うが、全国に顔を知られて羞恥感覚が麻痺した人の言葉ではないと思う。本当は、こうした「負け犬」を心の奥で蔑みながら「いやいや会社をクビになることなんか恥でもなんでもないよ」と鷹揚さをアピールしようとしてるんじゃないのか、と、疑わしくもある。


まあそういうわけだから、勝谷氏の本は図書館で読むか古本屋で買い叩いてやろうと思ったのでした。


デモやストは迷惑だというふうに、他者の連帯に対して反感、敵愾心、そして恐怖を覚える人がいる。人が団結する姿を見て、そこからなにかしら欠点をあげつらおうというのは、多数というものに対する潜在的な嫌悪感を示しているように思える。しかし多数が悪なのではない。「自らを恥ずかしいと思うものが数に頼む」ということはあるかもしれないが、数を頼むという行為それ自体は「恥ずかしいこと」ではない。そのような誤解が、羞恥を覚える行為を集団に紛れ込ませることによって安堵させている彼ら自身の経験から来ているとは思わないけれども。

「数が暴力」であることは確かにその通り。だが、この年末年始、派遣村に集まった人たちは圧倒的・絶対的多数者なのだろうか? 局所的に多数者となって抗議活動を行うというのは、ふだん無自覚な絶対的多数者(のごく一部)に対しての、自覚を促すパフォーマンスではないのか*4。少数者が連帯し、あなたに抗議するとすれば――そしてあなたがそれに動揺するとすれば――それはまったく知らず知らずのうちに、彼らに対して圧力をかけている他ならぬあなた自身に対する彼らなりの抵抗を感じたゆえかもしれない、というふうに自省する必要があるだろう。

近ごろの社会的動揺が呼び起こしているのは、自分を(たとえば「一億総中流」などというような範囲のうちで)安定的多者と思っていた人たちの、自分の拠所とする集団から見捨てられつつあるのではないかという不安、さらには焦燥だ。そこへ、自分が低く見ていたものたちの団結を見せつけられては穏やかではいられまい。自分が超少数派のように思えてしまう(本当は「少数派」なのではない。「弱者」だ)。そのあげく彼らは「最低限の安全と自由だけで良いから、とにかく助けてくれ」とかなんとか言って、巨大なナニカに都合よく絡め取られ、本当の圧倒的多数者を構成する、物言わぬ歯車と化してしまうのではないかと、そんなことを考えている。

預金をしっかりして、いざというときに自分で自分の身を守る派遣労働者のほうが、正直危険だと思う。もちろん賞揚されるべき堅実さ・誠実さではあるのだが、その存在はむしろ社会にとって有害ではないかとさえ思う(みなが嫌う、「遊び呆けたあげく犯罪に走るような人」と同じくらいに)。彼らは声をあげることもなく、ただ黙って耐える。その苦境は誰に伝わることもなく、もちろん政策にも反映されない。しかしそのじつ社会の総体の一部がボロボロになっていく。ピラミッドの礎石が目に見えぬ底辺のほうから劣化し、けっきょく最後には跡形もなく崩れるような感じ。

自分が「どちら側」の人間なのかは、みな考えてみたほうがいい。基本的に、自分のすべてを投げ出したが最後、いいように使われるだけだ。人をいいように使って良心の傷みを覚えることもなく、そういう他者目的的な者たちに伍して引けを取らず、さらに隙あらば選りすぐりの存在にさえなれるという自信がある人なら、そういう生き方を選びたいと思うかもしれないが――それだってとてもお勧めはできない。

*1:マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫) 大内兵衛向坂逸郎・共訳、昭和28年5月4日第5刷51-52頁から引用

*2:SAPIO 2009年3月11日号掲載)2009年3月16日(月)配信

*3:そもそもこの名前は誰が言い出したんだ?

*4:要するに絶対的多数者は団結力がなく、相対的多数者(少数者)は迫害されているという自覚(被害者意識)ゆえ結束が固いということなのかな。