そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

隣り合わせの灰と生命

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自殺の「罪深さ」はどこに由来するか - 今夜だけでもときめきたいんだ
http://d.hatena.ne.jp/TOkimeki_TOnight/20090728/1248794781

あんまり関係ないというか話がずれるので(今度こそトラックバックはしない。

僕の父はだいぶ前に亡くなった。長期にわたるカフェインとアルコールとニコチンの過剰摂取による服毒自殺である……という(例によって)すべりそうな冗談はさておき、じっさい自宅で急死したので、最初は変死扱いで解剖されたし、形ばかりではあったけれども警察の現場検証があったくらいだ。

なにしろ本人は死んでいるので呑気なもの(?)だが、無名のもの書きでさえ、ある日突然いなくなれば家族や友人知人や仕事上の関係者や救急隊員や医師や看護婦や警察官が振り回される。個人の死によって社会がびくともしないというのは、「その人が取るに足らないから」というより、「緩衝材となる存在があるから」だと思う。現場レベルでは大混乱なのだが、関わる人たちがその衝撃を少しずつ吸収して、システム全体としてはほとんど何の影響もない。だいたい首相が急逝したって、そんなに困らなかったではないか。よく知らんけど。

それで思うのは、我々は「社会」というシステムを甘やかしすぎていないかということである。年に三万数千人も自殺して、それで「社会」が平気な顔で存続しているというのは明らかに変だ。「現場」では「三万人」と「社会」の板挟みになっている人がどれほどいることか。それは自殺者の犯した罪と言うよりむしろ、必ずしも死ななくてよい者を死に追いやって顧みず、しかもその後始末を死者の周囲の個々人の努力に委ねる「総体としての社会」の無策ではないかと思う。むかし交通事故の死者が三万人くらいだった時代があるという話を聞いて驚いたが、*1まさか「社会」は「三万人の死」をあらかじめ勘定のうちに入れてないだろうな。まったく疑わしい。

「死」という概念がふだんの生活から疎外されすぎている――とはよく言われる話だが、社会から疎外されて*2苦境に陥った人が、その進む道の先で同じく疎外された死に出会うことがあるというなら、まったく皮肉な話だ。「自殺が罪」と言ってそれで済ませようとするのは、救えなかった/救おうとしなかった「疎外する社会」の側に立って、その「社会の無能さ」に目を向けることもない態度であり、それは「疎外された人」、ひいてはその人に関わる人々に対する一方的な切り捨てになりはしないか。どこかのロシュフコーが「太陽も死もじっと見つめることはできない」とかなんとか言ったそうだが、「じっと見つめることはできない」のではなく、「じっと見つめることをしない」ような態度があるとすれば、いつまでたってもその社会は変わることがない。

ひとたび、病弊の存在、そしてそのなりたちや原因が明らかにされ、したがってその克服方法の一般的な性格とそれが適用する点が明らかになったときには、たいせつなことは、すべてを予見するようなプランをあらかじめつくりあげることに時をついやすことではなく、意を決して実行に取りかかることである。

それから百余年、まだそれにすら至らず。

*1:※2009.7.31訂正:同日付の朝日新聞朝刊によれば、日本における交通事故の最多死者数は1970年の16,765人(2009年上半期の死者数17,076人と、ここ数年の日本における自殺者数およそ30,000人を混同した? cf. http://d.hatena.ne.jp/islecape/20090731/p1)。もちろんそれでも驚くべき数。

*2:経済的な理由にせよ健康上の理由にせよ、ここではある種の「疎外」としてみる。

*3:デュルケーム著、宮島喬訳、一九九五年六月十五日5版504頁