そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

批判はかわさず、それで受けた傷口を観察する

十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、非イスラーム近代主義の立場から、『女性解放』(1899)を著すなどし、「エジプトフェミニズムの父」と呼ばれる弁護士のカースィム・アミーンが「一夫一婦」を称揚する運動を行ったことについて、人類学者で、女性・ジェンダー研究に携わるライラ・アブー=ルゴドが、『「女性をつくりかえる」という思想――中東におけるフェミニズムと近代性』のなかで、こう批判する。

私は(略)次のように主張する。アミーンは女性の権利、教育、就労について語ってはいるが、そうした主張を展開することによって彼が本当に奨励しようとしていたのは、近代ブルジョワ家族という家族組織と、そこで理想とされる夫婦愛や科学的な育児であった、と。アミーンが推奨した近代ブルジョワ家族は、のちの西洋フェミニストマルクス主義者、そして二十世紀後半の社会理論家たちによって、今では女性に強いられる服従の原因として非難にさらされている。こうした人々の主張によれば、この新しい家族形態は、女性たち〔のホモソーシャルな社会*1〕を分断し、女性に新たな責務を押しつけ、女性を夫の支配下に置いた。さらにそれは、家族の成員を資本主義的搾取にさらし、家族を通じた国家の支配を可能にし、家族を新しい形の監視=統制*2の監視下に置いた、というのである。

第七章「エジプトにおけるフェミニズムイスラーム主義の蜜月」*3 

さらにアブー=ルゴドは、留学で欧州かぶれになったアミーンの、「ロマンチック」な愛情と「甘ったるい」夫婦関係に対する憧れに基づいた結婚観を指摘し、彼の「(欧州的)近代性」による「女性解放計画」が、彼自身の嗜好からきた「よき妻・よき母」を再定義するためのもの、すなわち近代化事業による国家の発展を目指すにあたっての要素でしかなかった、と主張する。

アミーン弁護士もずいぶんな言われようである。しかしそれよりむしろこの批判は、(もはやもの言えぬ)アミーンより、アミーン的な存在を検証もなく無批判に讃える立場、あるいは自らが(アブー=ルゴドいうところの)アミーン化しているようなものに対し、強く内省を促す言葉のようにも思える。「男女同権」は、日本においても西洋からのものが導入されている。その導入と現在に至るまでの運用に関して、はたして個々人や家庭のレベルにおいて深い省察はなされているだろうか? 長らく社会を主導してきた男性主義は、女性の権利をどのように扱ったか、そして、いまはどう扱っているか。

僕自身の男女差別に関する感覚は、「夫婦別姓で家庭崩壊」などというとんちんかんな主張を堂々と表明する新聞の主張をちらと見て鼻で笑うていど。しかし、そうした感覚が男女同権思想の徹底ゆえかどうかは、自分でもわからないところがある。周回遅れの家父長的感覚を持つ人はまだまだ少なくないし、そうした人々と比べれば、なんだか進歩的のようにも見えるが、じつはそうした「家父長的感覚」よりさらに周回遅れの「紳士(気取り)的感覚」にすぎないのではないのだろうか……と、ときに思わなくもない。なんとなく優等生的なことを言って、周囲からの受けも悪くない。しかしその実やってることを子細に検討してみると、おのが身を切るような、自分が損になる行動をしているというわけでもない。自分の嗜好にあわせて思想を見映えよく取り繕っているだけではないか、といった批判に対し明確な答えを見いだせない状態というか。

しかしまあ、そうした批判をされたとしてもやむを得ないのではないかという気はしている。男性が「男性という生得的な属性」から逃れられないのは、(いつまでも過去の侵略戦争を批判される)日本人が日本人であることから逃れられないのと同様なのではないか、と。確かに、その属性であることそれ自体を批判されたとしても、個人にはどうすることもできない。だからといってその状況に無自覚であることが許されるわけではない。

一方で、こうした問題が取りあげられるに際して、批判対象となった側が(かくもあいまいで不安定な立場から逃れるために自己を合理化しようとしてか)批判者の態度や動機をあげつらうことは少なくない。つねづね主張しているが、まったく慎むべきことである。批判者になんらかの問題があるとして――ために批判者がそのことについていずれ自身の問題として折り合いをつけることになるにしても――それはあくまでも相手の問題であり、批判そのものが無効化することは決してない。批判対象に向けて発せられた問いかけは、そのままそこにある。

無謬の批判者が現われないかぎり真剣に内省に取り組まないというのは、知性にとってずいぶん不幸な話ではないか。現代はあらゆることに対し、さまざまな「問いかけ」がなされるようになった時代である。いままで問題とされなかった(あるいは、問題に「させなかった」)ことがらが、次々とRevealされていく。むしろこうした問いかけがなされるということ自体が、現代社会のひとつの成果である。それらにどう向き合うかによって、未来(次の「現代」)が形づくられていくというのに。

我々は無傷の行程を望むようではいけない。時に傷つき、それを癒し、そして傷跡を意識しながら歩きつづけるしかないのだ。

*4

*1:訳注:ヘテロセクシュアルを基礎とした、同性間の排他的な連帯

*2:ルビ:ディシプリン

*3:「女性をつくりかえる」という思想 (明石ライブラリー132) ライラ・アブー=ルゴド編著、後藤絵美、竹村和朗、千代崎未央、鳥山純子、宮原麻子共訳。明石書店、2009年7月10日初版第1刷483-484頁

*4:※このエントリは、はてなハイクおよびTwitterへの投稿を(むりやり)まとめ直したものです。