あるいは「近寄らないようにする意思」の話
我々は、ことによると自らを糊塗するために*1、他者の不祥事に引き寄せられすぎているのではないか、そして今のWebでは、そのような心につけこんで人をダメにする無限のサイクルが完成しつつあるのではないか――というようなことについて書きます。
なんらかの事故や事件に遭った人に対して、「落ち度があるからこのような結果になったのではないか、自業自得なのではないか」といった、いわゆる「被害者叩き」が発生することがあります。そういう現象は「公正世界信念(仮説)」なる人間の心理状態によるものと説明されたりします。
「世界は正しき者の味方である」
↓
「悪しき者には相応の罰が与えられる」
↓
「現実に傷を負った者がいる」
↓
「傷を受けたのは、悪しき者だからである」
――というような論法なのでしょう。
もちろんこれ、「世界は正しき者の味方を~」云々という最初の前提からして間違っています。
世界(社会)がそんなに甘くないことくらい、我々は過去の歴史などを考えても知識として理解しているはずです。とはいえ社会的な動物である我々としては「自分の(コントロールの及ばない)外側」を「信頼」できなければ、何もかもが恐ろしくて出かけることもできなくなってしまうわけで……。
であればこそ、どんな人間も心の奥底では「公正世界信念」のようなものを抱き、恐慌をきたすことなく日々を過ごせている――というのは、それなりにありそうな話です。
そして、場合によってはその「信念」がゆきすぎて認知が歪み「被害者叩き」みたいな逃避行動に走ってしまう人がいる、ということなのかもしれません。
話は少し変わりますが、昨日*2の夕刊を読んでいたところ、熊本県の大地震に関連して、Web上で目立つようになった「不謹慎狩り」*3という事象について、社会心理学者が「共感疲労」という用語を使って説明していました。
「災害現場などの現状を報道で見続けると、被災者に共感しすぎて暗い気分になる。ひどくなると、他人が笑ったり普通にしていたりすることにも怒りを感じ始める」*4
「公正世界信念」「共感疲労」といった説は(人間の心理状態というものが解明しつくされたわけではないので「眉唾」とまでは言わないにしても)あくまで参考情報くらいにとどめておくべきでしょうが、どちらも本来は人間の「善意への信頼」や「他者への優しさ」とリンクできるように思えます。
しかしそれがどう間違ったか、アウトプットする段階で他者攻撃になってしまう。人間心理と現実社会の不幸な邂逅というよりほかありません。
とりあえず今回の話をするにあたって、これらの心理状態のメカニズムの仮説を頭の片隅にひっかけておきましょう。
前置き終わり。
なにやら立派なことを言っていた立場ある人が、その実しょうもないことをしていたため、ブーメランが刺さって失脚する――そこまでいかないでも失笑を買う――というようなパターンを最近いくつか見かけました。
「学生の政治活動に文句を言った人が性を買っていた」とか、「保育園に落ちた人の匿名記事に対して子供を育てる覚悟がないとか言った人が隠し子問題を抱えていた」とか、なるべく聞かないようにしていたので うろおぼえですが、なんかそんな感じの。「議員も育休を取るべきだとか主張した議員が、妻の居ぬ間に不倫した(元々そういう軽い人だった)」みたいなのもありましたかね。
そういう話を聞くにつけ「なんで脛に傷があるのにそんな藪蛇みたいなことを」と思ってしまうのですが、ふと「だからこそ、そんな“立派”なことを言ってしまったのでは…」ということが頭に浮かんだのでした。
あまり覚えめでたくない隠しごとに対して、彼らにもそれなりの良心の呵責があり、自分の内心のバランスを取るための一種の「埋め合わせ」をしたのではないか。
社会的地位の高い自分に対する周りの視線と、自らの実態との乖離を気に病むあまり、自分を守ろうとついてしまった“嘘”(あるいは“自傷行為”)なのではないか。
……と、いうような(心理学には無知なので、そうした研究があったりするかもしれませんが承知していません。印象と直感だけで話をしています)。
そうして取り囲む人々に囃し立てられつつ彼らは退場し、しかしまた別のところに別の誰かが出現し……
ところで少し話が変わりますが、本来「野次馬」をするのにもっとも必要とされるものはなんでしょう。
それは“運”ではないでしょうか。
何らかの事件・事故に、無関係かつ無責任な立場で「その場に“居合わせる”ことができる幸運」あってこそ、我々は「野次馬」でいることができます。
江戸川コナン少年が殺人事件に引き寄せられることにリアリティがないとすれば、我々が日常生活において毎日何かしらの事態に遭遇することも、実際は非現実的で起こりえないことのはずなのです。
ところがWebという拡張によって、我々は指先ひとつで「野次馬」になることができるようになってしまいました。しかも、大小さまざま毎日のように人々の耳目を引く何やらが発生しています。皆がカメラを持ってたり、すれ違う他人の発言一字一句をご丁寧に書き起こしたりと、本来はその場の一瞬で消えゆくあれこれが記録され、衆目にさらされる機会が増えていますからね。
しかし、「野次馬」って、なりたいものですか?
「野次馬になる機会」を捉えたとき必要なのは、自省と自制*5ではないでしょうか。
ひとつには、社会状況としてこれだけ誰もが批判者たりえるツールを得た現代では、多衆の声が各々その意図がなくとも総量としては大きな攻撃力になりがちということを皆がそれぞれ自覚し、仮になんらかの「批判的な視座」を得たにせよ、それを脊髄反射のように表出しない――というような“マナー”が必要になってきているのではないか、ということ(早い話が自分がコメントスクラムの一員になって、誰かに必要以上のダメージを与える可能性に配慮すること)。
もうひとつには、個人個人の人生として「批判できるもの」を見かけたとき、それを見に行こうと行動を起こすのは、それが主体的のように見えて実はそうでもなく、自分の時間を奪い精神を疲弊させる《インターネットの罠(笑)》なのではないかということを考えてみてもよいのではないですか、ということです。
ここに書いて誰に届くかもわかりませんけど。
21世紀も高校生くらいの年齢になって、指先一つのコミュニケーションが多くの人に行き渡っている状況下で、言及――というか批判・非難の総量はどれほどになったでしょうか。なんでも、ネガティブな言及のほうが、ポジティブな言及より数が多くなる傾向があるらしいですよ。
Webは「場」を提供します。
これはつまり我々を永遠に野次馬たらしめんとする場があり続けるということです。
騒がしいからついつい近寄ってみた、ではなく、実際のところ「騒がしさに引き寄せられて」いるのではないですか。
それは、もしかして自らを偽るための嘘、逃避、ひいては緩慢な自傷としての、(先に挙げた)我々がことばの礫を投げつける相手であるところの《藪蛇の嘘》をついた人のふるまいと根源的なところで同じだったりして。
そして時にはその野次馬の中から、次の生贄の羊がまな板の上に乗せられたりすることもあるかも――いや馬だけど、もののたとえとして羊。
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というようなことを、ひところ話題になった号泣県議の動画をついうっかり見て後悔した妹にこんこんとお説教しながら、実際のところ動画こそ見に行っていないもののうっかりTwitterで流れてきた書き起こしは見て吹き出していたのが僕です。
もっと華麗に罠を回避できるようにあらねばならぬ。