そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

ヘイトスピーチの法規制について考えるブロガーへ


http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110111/p1#c1294817745 より
このページ http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110111/p2 は独立したブログエントリとして意図されたものではなく、上記コメント欄の続きです(投稿日時は2011年1月15日午後11時53分……くらいだったと思います。

まえがき

平易に書き、なおかつわかりやすい文になっている、というのはもちろん理想なのですが、残念ながらどうもその能力がありません。文体診断サービスによれば僕の文章は常に「一文が長い」そうです。それに加え、「Webに書くということは、それは広く公に向けて書くことであってその責任が云々」とか言いつつ、ふだんから読み手のことを考えず書き飛ばしがちで、意をつくせない文章になりがちです(思想信条の異なる人、意見が対立する人には特に)。今回など、なるべく誤解のないようにとカギ括弧や注釈を多くしてしまったため、もともとたいして読みやすいとも言えない文章がさらに読みづらくなってしまっているようにも思うのですが、あらかじめご了承ください。

また、この文章をquagmaさんの日記のコメント欄に書くべきものか、前記事のコメント欄に書くべきものか若干悩みましたが、quagmaさんのエントリはtari-Gさんに名宛されたものであり、また、前の記事は基本的に「改正東京都青少年健全育成条例」をめぐるものでしたので*1、今回「ヘイトスピーチへの法規制」を主眼とするにあたり、新たにページを作って投稿しました*2。誤字脱字その他の単純ミスが多くなりそうな予感もあるので……*3

それと、10000字を超えてしまいそうな勢いだったので、文章を削りました。それでまた意をつくせない状態になったおそれもありますが、実生活上の都合で見直す時間がないので今日(2011年1月15日)はここまでにして、後日読み返しては書き換え、もう少し簡潔な文章にしようと思っています。

2011年1月16日午後9時5分、ブックマークがついているのにびっくりして一部の助詞や副詞などを修正。補足追加。

本文

社会がヘイトスピーチの「具体的な内容、そのはなはだしさの程度、それらの評価」を定義し、合意をはかろうと努力すること自体は無益ではないと思います。ヘイトスピーチを「規定」することについては、それが理解と認識を深めるという点において、もちろん全否定的ではありません(それが「正しい」価値観の強制となりうる点においては賛同しかねるものの、「日本で日の丸を焼くことはヘイトスピーチではない」ということを確認することだってありえるでしょうし*4)。そもそもこの社会は「ヘイトスピーチ」というものについて、まだ突き詰めて考えていないように思われます。ただ、「ヘイトスピーチの害悪への対処としてこれらの『対抗言論』で足りるのか、である」という懸念については、もちろん現状はその通りなのですが、僕としては「ヘイトスピーチへの対処としての対抗言論」が「なぜ少ないのか」というそのこと自体が不思議でなりません。もしかして、この社会はまだ「ヘイトスピーチという概念」*5をそもそも知らないのではないかと。

こうした悠長な考えは、いま現にヘイトスピーチの被害にさらされている人の苦境を無視しているように見えるでしょうが、しかし一方で「ヘイトスピーチ規制」によって、そもそもヘイトスピーチのもととなる「偏見」そのものがたちまちなくなるとも考えがたく、「ヘイトスピーチについていちいち考えなくていい社会」で起こりうる「差別の隠蔽作用」について懸念もあります。社会全体で見ると「ヘイトスピーチ」というものの理解が不十分なのに、それを先回りして規制してよいのかと。そうした面からも「ヘイトスピーチを法律により規制すべき」という主張について効果への疑問もあります。

少なからぬ人が「『ヘイトスピーチを法律により規制すべき』と主張する」ことについて、まったくの誤謬であるとは考えていません。「表現自由主義」的な考え方が近年発達した「精神的暴力」といった概念をあまりにも過小評価し、「『対抗の声をあげられないもの』をどうするのか」という「現実」からの問いに、「理念以上」の回答を提示できていないこともあり、「現在の社会状況における不正・不公平に対する最適解ではない」というふうに考えられることにはやむを得ない面があります*6。また、「法は運用次第」なので、ヘイトスピーチ規制が実現した社会が「どうなるか」の絶対的な予測もつきませんし……(個人的には「国家の恣意的な運用のリスクが高まる」というふうに考え、また、自由主義的な考えからも反対を主張しますが、それに同意しない人がいるとしても驚きません。ご提示の内野案は「ある意味」穏当なものであり、僕は前述したような理由からこれについても同意しませんが、有権者が熟慮の上でこうした法律を導入することに賛成するような社会であるなら、それはそれで悪いことでもないと思わなくもありません*7。もっとも、そうした社会はこのような法律を必要としないのではないかとも思います*8)。

もしかりに「ヘイトスピーチ」の是非について国民投票が行われた場合、僕はやはり反対に票を投じるでしょう。さらにそのような立法が叶い、「ヘイトスピーチ規制法」のようなものが成立した場合、もちろんそのことは受け入れますが、それが公正に運用されているかについては注視し、また同時にその法律の撤廃を主張することになるでしょう。これは、「石原都知事ヘイトスピーチがあまりにもひどいから起訴され、有罪となり失職する」社会より「石原都知事ヘイトスピーチがあまりにもひどいから、立候補しても40票しか入らない」という社会を望ましいと考えているゆえですが、しかし僕自身が、僕を構成する属性において多くの面でマジョリティ(日本人であるとか、男性であるとか、数の問題というより、社会的優位にあるということ)であることと考えあわせると、「無制限の表現の自由」を支持する僕のこのような主張は、実は単なるポジショントークでしかないようにも思えます。こうして主張すること自体「差別構造の温存・推進を助長している」という批判もあるでしょう(先に話題にした、「表現」に対する規制を意図する立法者たちも〔数の上では必ずしも多いと考えられないけれども、その権力性によって〕「マジョリティ」と呼べるため、こうした議論は結局のところレイヤーの異なる「マジョリティ」と「マジョリティ」の権力闘争になっている面があって、マイノリティそれ自体について忘れ去られている感は非常にあります。)。

僕は、個人の立場でいくつか記事を書き、自分の考え方を表明してきました。社会的に公正でないと思われる意見に対して(それがはたして有効なものかどうかはともかく)批判を行うとともに、僕自身の表現がなにを傷つけているか、また、どんな不公正を助長しているかを考えてきました。「内心の自由」というものはあっても、それは内心のヘイト感情を正当化するものではありません。その内心の憎悪は批判されるべきです。もちろん内心で密かに誰かを差別・蔑視することによって社会からペナルティを受けることはありません(そもそもそれがまったく外に出ないかぎりにおいては批判されようがないですし)。では誰が批判するのかといえば、それは自分です。「自分」は究極的には「自分」によって批判されるべきであり、そのためには、自分がどのような偏見を持ち、なにがヘイトスピーチであるか、個々人が自分の問題として考えなければなりません。であれば、外形的な一律の規制はそうした自己決定の阻害要因にしかならず、それはまわりまわってヘイトスピーチがもたらす根本的な解決を遠ざけるのではないかと、そう思っています。

補足

以下はやや余談的で話も繰り返しになりますが、quagmaさんは最初のコメントで、

>「表現規制」というのは「対抗言論を強制力で阻む」ということ
>という説明がややわかりにくく感じたのですが、

――とお書きでした。僕は一次表現(ヘイトスピーチも含め)そのものも「(ある存在に対する)一種の対抗言論」と認識しています(たとえば、表現活動そのものが「社会の既成概念に対するある種の抵抗」ということ)それを自分の中で当然視するあまり今回の記事文中で抜け落としたため、(僕の考えが妥当かどうかはさておき)もしかしてそれで通じていなかったのではないかと思ったので、念のため書き添えておきます。これは繰り返しになりますが、僕はそうした「〔不当と思われる〕言論」に、「〔自分が正当と信じる〕言論」をぶつけることに一切の制限がない社会、「いかなる『言論』の流通も自由放任」な状態が保証された社会を望ましいと考えており、「なにが『ヘイトスピーチ』か」という価値観を「話しあうこと」は結構ですが、それを「法で規制」することには反対です。

「権利の上に眠るものは保護に値せず」という古い考え方がありますが*9、言論・表現分野において自由主義者であるところの僕としてはこんな感じです。「受け手に負担がかかるから」という理由をもって表現を規制することは、僕の原理主義的立場からは肯定しえません。前の記事でも中途半端に書いたとおり、もちろん「保証」される「対抗言論」は、あくまでも言葉によって行われるもので、「暴力をともなうもの」は、現在でもその不法行為(暴力)そのものをもって摘発されることになるので*10、あとは個人間で問題を解決すべきということです。個人がWebでメディアを持つような時代になった(ヘイトスピーチの「場」が公衆トイレの落書きだけではなくなった)ことを考えると、調停機関くらいあってもよいとは思います。



なんだか自分でうまく言語化できていないので、(自分に)わかりやすいよう意見のポイント抜き書き
1:ヘイトスピーチ規制の効果について疑問ゆえに反対。規制してかえってヘイトスピーチが見えなくなる。考えなくなるおそれがあるので反対。
2:抑圧解消を口実にしたヘイトスピーチ規制が、けっきょく抑圧の口実に使われる恐れがあるから反対(反対理由1の「効果」に関連する。国家権力に対する不信があり、「効果はないが悪意のあるヘイトスピーチを規制する社会」と「抑圧装置に新しい武器を与えること」の比較検討で、こうなる。じゃあ「効果のあるヘイトスピーチ規制だったらどうか」と言われると、「だからそんなもんは幻想だよ」と思うものの、それに対する証拠は提示できない。そもそも「効果のあるヘイトスピーチ規制」を求めることについては懐疑的。あれ? じゃあ、「反ヘイトスピーチ宣言」とかはいいのだろうか?)
3:いや、そもそも法と国家が「言論の悪」を定義することに対して反対(反対理由1・2のちゃぶ台返しになる)
4:表現の自由・言論自由主義の権利の侵害になりそうなので反対。「法」が創作者に対して「悪は必ず滅びなければならない」的な物語を作ることの強要になる可能性もある(権力に対する不信その2。反対理由3と関連。改正青少年健全(略とも関連。ただこれは、僕自身の「政治的好み」の問題ともいえなくもない。僕としてはもっとも重要視しているが、他の人に尊重してもらえるかというというそうではないような)
大雑把にいうとこの四つ。ただ、さらに他にもあって、それを文中に組み込めていない(上記四つと重なったりするので、文章の流れとしてオミットしてしまっている。というか、上記四つも重なる部分が多い)*11


以下、ブックマークコメントから

zundel 表現の自由, ヘイトスピーチ "ヘイトスピーチ規制が実現した社会が「どうなるか」の絶対的な予測もつきませんし"→「ソ連邦の法律では反ユダヤ主義は死刑によって処罰される」ヨシフ・スターリン、1931

おっしゃりたいことは理解しているつもりですが、「この国はソ連ではない」と言う人は必ずいるので、そうなるとそこで話が止まってしまいます。僕としては、なんとかその先に話を進めたいと思います。


minazuki6 正当性の話(表現の自由など)と実際の運用の実効性の話(悪用されないかとか)が混ざるから議論は難しい気がします

当然のことですが、「回答」は出ないともちろん思います。しかし議論(的なもの)はできると思っています(当事者の能力の限界はあるでしょうが)。それに合意はできなくとも、その過程のログが残れば、Webコミュニケーションとしては御の字でしょう。ここで議論しようとする人間が政策決定権を持っているわけではなく、有権者全体の問題なので。


border-dweller なんかsk-44さんを思い出した 理解してる自信がないけれど 原則論としては正しいと思う だけどマイノリティ側に一方的に負担を強いることになる点が納得行かない

これは信じていただくよりほかありませんが、僕も自分で書きながら納得いかない感を強くしています。(このような意見を述べることによって、「『マイノリティのことなど知るか』というような考えの持ち主」であると思われるのを恐れて、意見を述べない人もいるのだろうかとも思いますが……)


*1:ヘイトスピーチには「もののついで」に触れた程度というか……

*2:ただし、書いた本人は冒頭に書いたようにコメント欄の続きのつもりでいます。

*3:あと、「脚注記法」も使いたいので。

*4:いや、ないか?

*5:「そもそもそのなにが問題なのか」「自分が相手にしなければそれでいいのではないか」というような考えであったり。

*6:どうしても「理念と現実は地続きでー」というようなことを言ってしまいがちですが、それが現に差別される人を救わないのは、ある面において事実なので(規制だって「なんとなく現実を救いそうに見える」以上のものではないように思いますが、それは僕が言っても公平性に疑問を抱かれるだけなので、ここでは強く主張しません)。

*7:まわりくどい言い方になってますが。

*8:いったい法律とはなんのためにあるのだろうかということを考えると、また話がずれるのでとりあえず保留。

*9:これは基本的に民法の問題で、刑法の「時効」概念は、むしろ「証拠の散逸や、目撃者の記憶に基づく証言の信用性への疑念などによって公平な判断を下すことに困難が生じる」という考えに基づくとされる。

*10:逆に言えば、暴力に結びつくヘイトスピーチ(興奮した群衆を扇動するなど)は強制力をもって排除されることになるでしょう。

*11:ふだんは「理由はみっつ」と書いて「よっつだった」というギャグをやるのですが以下略