国をあげて
家にいるとNHKのBS-1をつけっぱなしにしていることが多いのだが、アジアの報道番組などを特集する夕方のニュースの番宣が、「いま、韓国は国をあげて子供たちのアトピー性皮膚炎対策に取り組んでいます」というようなことを言っていた。
確かに病気の人はつらいだろうし、そういう人たちへのしっかりとした支援があるとすれば、それはきっとよいことに違いない。だがそれでもこう思ってしまった。
「国をあげて、ってなあ」
他に取り組むべき課題がないわけでもあるまい。なにか別の困難を抱えている人などは、「いや、アトピーもいいけどさ、おれたちのこと忘れられてもね」と寂しげに言うのではないか。*1
それでふと思いついて「国をあげて」および「国を挙げて」でgoogle検索をしてみたのだが、「"国をあげて" の検索結果 約 3,210,000 件」「"国を挙げて" の検索結果 約 2,550,000 件」と出た。これはただごとではない。「国をあげて」への関心の高さがうかがわれる。*2
そしてそれらをざっと見るに、日本が「国をあげて」何をしているかというより、日本でも、「少子化対策」「健康対策」「人材育成」「産業育成」「雇用対策」「食料対策」「環境対策」「年金問題対策」「五輪招致」などに国をあげて取り組むべき、などという意見がいろいろあるということのようだった。
しかしいま例にあげたようなことをすべて「国をあげて」やるとなると、注意散漫になって「国をあげ」ただけの効果は出そうにない。というかそれは「国をあげて」もなにもないんじゃないか。「国をあげて」と言いつつあまりにもやることが多すぎて嫌になり、じつは手を抜いた、みたいな結果になっては本末転倒だろう。
むしろ、いま日本は「どんな問題に国をあげるか、国をあげての議論が待たれる段階」*3であり、各々の問題が、「自分こそが国をあげて対策されるべき問題」と自己主張をしているということなのではないかとも思う。
それだと五輪招致あたりは真っ先に切り捨てられそうな気がするのだが、五輪招致もさるもの、「いやいやわたくしなど、ほんの片手間に応援してくださればそれでいいのでゲス」などともみ手をしながらすり寄って来そうな気がするので油断ならない。
「いや片手間って、それは『国をあげて』とは言わないと思うんだけど」と言い返したら、「いやいやそこは、へっへっへ……わかるでゲしょう?」などと五輪招致から意味ありげな目配せをされることを想像するとじつに嫌な気分になるのだが、これはあくまでも僕の勝手な想像なので怒ってはいけません。
そもそも国をあげなくてもいいから、皆がそれぞれの問題意識に従って地道に努力をするほうがいいのかもしれない。いや、そんなことは皆わかっているはずなのだ。それでもなお、「国をあげて」な問題になりたがる。つまり「国民の最大関心事」たることを望むのだ。そこに「国をあげて」の魔力がある。
「国をあげて」のお墨付きのために浪費される無駄なエネルギーはまったくもったいない。そしてこんなどうでもいいことに頭を悩ませている僕の時間もこんな文章を読んでしまった人の時間ももったいないような気はするのだが気にしてはいけません。