豚の悲劇
だめな古代人
これまでにも何度か言ってきたが、われわれの現代文明が古代ギリシャ文明に負うところは大である。しかし、やはりどうにもついていけないところはあって、それは、プラトンの『ソクラテスの弁明』を読んで、「うんうんわかるなあ」とうなずきながら引き続き『クリトン』を読み、「ああ、なんて素晴らしいんだ」と感動の涙を拭いつつ『パイドン―霊魂不滅の証明魂の不死について』を手にとったら「……( ゜д゜)」となってしまうような状態、と表現すればわかってもらえるだろうか*1。
- 作者: フリードリッヒニーチェ,Friedrich Nietzsche,戸塚七郎,上妻精,泉治典
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1994/05/01
- メディア: 文庫
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敵対的なものを断固除去する態度
生命を断つという行為は、古今東西において、ごく一部の特殊な例をのぞいてタブー視されており、現代も例外ではない。しかし、古代ギリシャの場合、それがどこかずれているように感じられるのである。
極めて完全な清祓*3の例としては、つぎの記事を参照されたい。テオクリトス『田園詩』二四・五・八八以下(アーレンス校訂出版『田園詩』一九・四一・五・六五以下)。すなわち、まだ赤子であったヘラクレスが、それにもかかわらず蛇を殺したとき、アルクメネ*4はテイレシアス*5を呼んで、このテラス(変事)の意味を解きあかすようにもとめた。
第三章、宗教儀式の第一節「清祓、カタルシス、ルストラティオ(スフィントゥム・エクスピアテオ・プルガディオ)」(524頁)
簡単に解説すると、ギリシャ神話で一・二を争う英雄ヘラクレスは、最高神ゼウスの子。これは、ゼウスの妻であるヘラが、ゼウスがアルクメネに生ませたヘラクレスのもとに蛇を二匹送り込んだら返り討ちにされたというエピソードに仮託された、「穢れ」の祓いかたである。
なにしろゼウスの血を引く子である。蛇の一匹や二匹殺したところで「変事」でもなんでもないし、そもそも意味を解きあかすもなにもないだろう。「よくやった」と褒めてやったっていいのではないかと僕などは思うのだが、アルクメネは真剣である。
そしてさらに困ったことに、「意味を解きあかすようにもとめ」られたテイレシアスがもっと真剣なのである。しかも変な方向に。
テイレシアスは、これが意味するところを示すとともに、次のことを行うように命じている。第一に、火によるカタルシス(五・八六以下)。すなわち、真夜中に、蛇の死骸は山査子*6と杜松*7と木苺の柴の上で焼かなければならない。そして、この灰を、従者は河の上に運び、嶮しい断崖の上より投げすて(あらゆるカタルマタ〔浄められたけがれ〕は、埋められるか、投げ捨てられるか、された)、ついで、背後を振り向かずに、真直ぐ帰らなければならない(これは、敵対的なものを断固除去する態度を象徴する)。第二に、硫黄(テイオン・これはまた稲妻をも意味する)を燃やして家の全部を燻すこと。第三に、清めの水「定めのように塩の入ったもの」を注ぐこと。しかも第四に、この清めの水を注ぐに際しては、葉でおおわれた刷毛を用いること。これらについで、犠牲(ゼウスに対して牡の子豚)と祈願を捧げること。
第三章、宗教儀式の第一節「清祓、カタルシス、ルストラティオ(スフィントゥム・エクスピアテオ・プルガディオ)」(524頁、引用強調はid:islecape)
大の大人が、子供(というか赤ん坊)のしたことで深刻に話し合いをしている姿を想像してほしい。しかもその結論が結論だ。従者にさせるというのがまずもってどうかと思う。そんなに深刻に思うのであれば自分でやればいいじゃないか。だいたい「敵対的なものを断固除去する態度」などというと、ずいぶん堂々たる立派な態度のようにも思えるのだが、よくよく考えてみるとこれはただの臆病者のように思える。だって「背後を振り向かずに、真直ぐ帰らなければならない」ですよ。「振り返ったら追いかけてくるかも! キャッ! 怖い!!」とか思ってるに違いない。「蛇の灰」相手に子供ですかあんたらという感じだ。そしてあげくのはてには、ゼウスに子豚を捧げるというのである。いったい子豚に何の罪があるというのか。というかそもそもゼウスはヘラクレスの父親だろうが。愛人に生ませた息子が妻に殺されかけたというのに何やってるんだあのおっさんは。
もちろん当然のことながら、われわれと感覚の違う古代ギリシャ人はそんなことは気にしない。そしてまったく斜め上に真剣なのである。
それゆえさらに、「殺人」というタブーについても、遺漏なく解決策が示されるのだ。
ことに豚
殺害者(ここにおいて、汚れは最も大である)の清祓。それは血もしくは水で行われた。血による清祓は、二重であって、一部に動物(ことに豚)の血が、一部に殺害されたもの自身の血が用いられる。アイスキュロス『慈みの女神たち』四四九行「殺害者は、流した血を清めてくれる誰か他の者の手によって、乳を飲む仔豚を生贄にしたその血をふりかけてもらうまで、口をきいてはならない」。これはすなわち「殺害をもって殺害を清めること」である。
第三章、宗教儀式の第一節「清祓、カタルシス、ルストラティオ(スフィントゥム・エクスピアテオ・プルガディオ)」(526頁・引用強調はid:islecape)
「殺害」がわりあい日常茶飯に行われているような書きようはいかにも古代であるが(まあ現代だってそれほど立派なものではないけれど)、それにしても、「乳を飲む仔豚を生贄にしたその血をふりかけてもらうまで、口をきいてはならない」である。なにを言ってるんだまったく。また罪のない子豚が犠牲になるというのだ。なにしろ「ことに豚」である。いったいこいつら豚にどういう恨みがあるのだろうか。ここで言うべきなのは「これ以上罪を重ねるな」だと思う。
誰かタイムマシンを発明したら、真っ先に宮沢賢治の『フランドン農学校の豚*8』のギリシャ語訳を送ってやるべきなのではないか。現代の価値観で過去を断罪してはいけないというが、これはちょっと黙っていられない。というのも僕はJ.S.ミルの『自由論』に大きな感銘を受けた者であるが、彼の「満足した豚よりも痩せたソクラテス」という豚を軽んじるような言いぐさには断固抗議したいと思っており、死んだあとミルに会う機会があった場合、「は、ハロー、サンキュー、グッバイ」で済まないよう、ちゃんと英語で批判するために少しずつ英語を勉強しているような人間なのである。でもギリシャ語はまるっきりわからないので、このさい冥府の古代ギリシャ人に対し豚権*9無視の非を諭す大志に燃えたギリシャ語堪能な同志を求めたいと思っております。
で、もちろん、そんな豚擁護派の憤激など知るよしもない古代ギリシャ人はこれくらいでは安心しない。
時には、殺害者は殺害を行った直後、自分で自分を清祓した。殺害者は、殺害された者の手足を切り取り、これを殺害された者の腋窩(マスカレ)の下に縛りつけるのである。それ故に、このことはマスカリゼインΜασχαλιξεινと言われる。ついで血を口にふくみ、そして吐き、さらに相手の頭で刀の血をぬぐうのである。この目的について、ソフォクレス『エレクトラ』四三九行・古註は、「殺害された者が血の復讐をしないよう無力にするため」と記している。殺害された者が、死後においても手足の出せないよう、手足を切り取ったのである。また、身を汚している血を身から取り去るための試み、いや、この血を殺害された者の身に移すための試みと見ることもできる。
第三章、宗教儀式の第一節「清祓、カタルシス、ルストラティオ(スフィントゥム・エクスピアテオ・プルガディオ)」(527頁・引用強調はid:islecape)
なんとまあ、殺されると、手足を切り取られたあげく「穢れ」まで転嫁されてしまうというのである。「いや、この血を殺害された者の身に移すための試みと見ることもできる」。「いや」じゃねえだろ。古代ギリシャ人というのは臆病というだけではなく、とてつもなく卑怯な民族なのではないか。まさに開いた口がふさがらないとはこのことだ。
しかして現実を翻るに、ひとつの真実を見いださねばならない。
つまり、彼らこそ、われわれの文明の始祖なのである。
毎日豚食べてるし。
あわせて読ませたい:
宮沢章夫『牛への道 (新潮文庫)』
・なくともやはり払いたまえ(24頁)
・豚の食べるもの(191頁)
・いかにして栗鼠毛の筆は作られるか(226頁)
*1:SF者にわかりやすいように言うと、『星を継ぐもの』から『ガニメデの優しい巨人』を経て『巨人たちの星』に至る状態という感じと言えなくもないのだが、僕に言わせればそもそも『ガニメデの優しい巨人』からしてすでにどうかと思うし、人によっては『星を継ぐもの』がもうダメな場合もある。その上『巨人たちの星』で「ああやっと終わりやがった、やれやれ」とはいかず、その虚脱感を抱えつつ『内なる宇宙』も読まなければならないわけなので、パイドンよりよっぽど大変といえば大変なのだが、やっぱりこれじゃ普通の人にはまるっきりわからないね。
*2:盛り上がったのは自分だけだが。
*3:きよはらい
*4:islecape注:ヘラクレスの母 cf. Wikipedia:アルクメーネー
*5:islecape注:盲目の予言者 cf. Wikipedia:テイレシアース
*6:さんざし、言及書では旧字
*7:ねず
*8:青空文庫で読めます → http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/card4601.html
*9:「とんけん」と読むのだろうか?