そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

マイノリティとマジョリティ

何を考えているかわからない、などということをよく言われる。しかしながら、他人が何を考えているかなんて、わかるはずがないではないか。僕自身、いままで出会った人で、何を考えているかわかった人なんていやしない。そんな当たり前のことをわざわざ表明されるというのは、いったいどういうことなのだろうか*1

変人は「自分が変である」ということにすら気付かない――ある意味ではその通りなのだが、「どうやら自分は他人とズレているらしい」ということを、漠然と感じることはあるのではないかとも思う。どこがどうズレているかが、わからないのだ。そもそも誰だってどこかしら他人とズレている。そして、多少のズレは許容しあっている。自分と違う服を着ている人に目くじらを立てる人はいない。

ズレが問題になるのは、(マイノリティであることをほぼ宿命づけられている)「ズレた人」のふるまいが、マジョリティにとってひどく気になる場合だ。ある少数者が正しいと思っていることを、それを不適切と感じる多数が矯正しようとする。そのとき少数者が受ける苦しみである。多数者はだいたいにおいて、そうすること(「普通」にふるまうこと)が少数者のためになると思ってやっているのだが、少数者からすると、そういう「圧力」は「裸踊りをしろ」とか「三べん回ってワンと鳴け」などといったハラスメントを受けているような気分にしかならない。

直立不動で歌ったり、旗に向かって最敬礼することは、ほとんどの人にとっては何ということもないセレモニーの一環なのだろう。しかし、疑問を抱くことなくそうする人たちを見て、あるいは品のない宴会芸や、動物の物まねを見ているような気分になる人がいるかもしれないし、ましてやそういう人にとって自分がそれをするなどということは考えられないだろう。しかも、もしそんなことを言おうものなら、多数者の中には怒り狂って「非国民は出て行け!」などと叫びだす人もいるに違いない。どちらも自分の価値観で物事を見ていることには変わりないのだが。

少数者は常に正しく、多数者が常に過つ、とまでは言わない。しかし、多数者が少数者に押しつける「正しさ」の正統性の根拠を、それを称揚する多数者にたずねてみるがいい。「多数が支持しているから正しい」というていどの裏付けしか持ち合わせていないなら、説得されようもない。人はどうにも理解し合えない。その前提で、たとえ衝突するにしても、せめて破局だけは回避しようと努めるしかないのだ。相手が何を考えているのかなど、わかるべくもないのだから。

*1:もしかすると、イデアとかミームとかゲシュタルトとかリヴァイアサンとかヘゲモニーとか幻想第四次とか、常日頃そういうイタめなことを考えている僕の思考はだだ漏れ状態になっていて(そんな漫画があったね)、それをもって「わからない奴」認定されているのかもしれないが。