そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

デジャ・ヴュ

ここ数日、別件にかかずらっていたうえ、他でやっているブログの記事を書いたり、そのうえ昨日今日など、(現実逃避なのか)はてブにやたら入れ込んだりして、なんか時間を無駄にしたなあというような気分。

そういうわけで、民主党と検察にまつわる悶着は横目で半スルーしていた。政局にはあまり興味がない。とはいえ、「手続きに従って検察が職務を遂行しただけ」というような、ものわかりのいい意見*1が噴出している場所*2 *3で、ちょっと遅ればせ気味にブックマークコメントは書いた。

検察は自分の仕事をしただけ、何が悪い――というのは毒にも薬にもならない思考停止気味な意見なので、わざわざ書かなくてよろしい。そんなこと誰だって考える。ここで問われているのは、「検察の正当な職務執行ならそれでよし、しかし、もしそうではなかったら?」というような場合についてである。司法はいちばん市民から遠い*4。三権のバランスについて思いをいたしている人に対して、わざわざ「いやそれ考えすぎ」などと貶す必要もなかろう。

けっきょく捜査しようがすまいが、検察のふるまいは検証されなければならないのである。それを「批判」と感じるとすれば、それは自らの無謬性を疑わぬものの独善でしかない*5

……。

ところで、今日(12日)の朝日新聞に、ジェラルド・カーティスという人の小論があった。専門は日本政治だそうだ*6。公共事業における「腐敗構造がなくなっていない事実を軽視するつもり」はなく、「検察が不正献金の問題を追求する」ことは当然だし、「小沢氏の肩を持ったり」、検察が「怪しいとかいうつもりもない」と三重四重に断りながら、それでもなお検察の説明責任を求めている*7

さらにこんなことも言っている。

なぜ、検察の説明責任を求める声がもっと強く出てこないのだろうか。朝日新聞は3月10日、「民主党、この不信にどう答える」と題した社説を掲げたが、どうして「検察、この不信にどう答える」と問いかけないのか。

「私の視点 - 違法献金事件 検察には説明責任がある」ジェラルド・カーティス*8 

えーと、これは朝日新聞自己批判なんでしょうか?

まったく関係ない話になってしまうのだが、僕がこれを読んで思い出したのは、イラクの人質事件だ。「自己責任」という日本語に「だから助ける義務はない」「他人に迷惑かけるんじゃねえ」というような新しい意味が付与されたアレ。

僕はそのころオンラインにはいなかったが、かなり吹き上がっているということは耳にしていたし、もし当時ブログでもやっていようものなら、あちこちに喧嘩を売って大炎上していたかもしれない。

そのかわり新聞を読んでいた。どこも腫れ物にさわるような態度だった。読売と産経には独自の立場があるからいいとして、朝日と毎日がけっこう長く沈黙していたことが非常に印象に残っている。

一週間くらい経ってからだったろうか、朝日も毎日も、ようやく「彼らをバッシングすべきではない」というような意見を紙面に載せはじめた。しかしそれを書いたのは、朝日が高橋源一郎で、毎日はさだまさし。そんなことを外部委託してどうする、と思った。それで反響を確認したのか、ようやく社説にも人質を擁護する意見が載った。

だいぶ後になって、一連の経緯を検証する朝日の記事があった。彼らは誇らしく「読売新聞、産経新聞とは違って、朝日新聞は人質事件に際して、自己責任論に与することなく云々」というようなことを書いていたのだが、そこで示された社説の日付は、読売や産経のものと比べ、いくぶん遅れぎみだったようなことを覚えている。

*1:とか言いつつ、僕も職務質問に関して「ものわかりのいい意見」なエントリを投稿したことはあるけど。

*2:finalventの日記:http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090311/1236729923 のブックマーク

*3:アンカテ:http://d.hatena.ne.jp/essa/20090311/p1 のブックマーク

*4:しかも絶大な力を持っている。ひとを社会的に抹殺できる力を。

*5:ということは、「アルファブロガー」もか。

*6:などというのはちょっとしらじらしいかな。

*7:※2008.3.20追記:20日付の非ワイド版「私の視点」欄で「これは形式犯なんて軽いもんじゃないよ! だから説明責任はないよ! 続きは法廷で!」とする堀田力さわやか福祉財団理事長(元検察官)の反論を掲載している。前者(形式犯うんぬん)はいいとして、後者(真実は裁判で明らかにすればそれで足りる)は検察の人だなあと思った。

*8:2008年3月12日付・朝日新聞朝刊オピニオン欄より引用。