「真・善・美」というタイトルにしようか、「ねじ曲げるぜ!」というタイトルにしようか迷いに迷いましたが結論が出ませんでした
「壁と卵」の比喩について、
ただ、このスピーチを聞いてふと思ったのは、こういう場合に「自分は壁の側に立つ」と表明する人がいるだろうかということだった。作家はもちろん、政治家だって「卵の側に立つ」というのではないか。卵の比喩はかっこいい。総論というのはなべてかっこいいのである。
という意見があった(上記の文章はただのイントロで、本論ではない)。言わんとすることはわかるが、僕はこの意見には与しない。
というかそれ後だしじゃんけん……と僕が言うのも後だしめいているので、話をあらぬ方向に持っていこう。もし「美のためならば壁の側に立つことも厭わない」と言える人がいるのなら、それこそ本当の意味で芸術家なのだろうと思う、と。
誰かを迫害した美は、迫害された人(そして、そういう人たちに寄り添う人)にとっては唾棄すべきものに見えるかもしれないが、美とは、たとえそのためにどれほどの人が犠牲になろうとも、結局はそれが存在することが真であり、善であり、ただただ美なのである――と、僕は38%くらいは考えている*1。
もちろんそれは体制におもねるような人のことではない。卵の側に立つことの大切さも知りながら、それでもなお卵を叩き潰す芸術家のことを思うのだ。ヒューマニズムは美にとってひとつの要素でしかない。いや、むしろ自分も他人も犠牲にするというのは、ある意味ではあまりにもヒューマニティな行為かもしれない。その業こそが人間なのだ。
で、先の文芸評論家は、ふがいない、いじましいテーマの、エンターテインメント的な「けれん」のかけらもない、絲山秋子らが紡ぐ純文学の面白さを語り、次のように論を締めくくっている。
具体的な日常は、総論みたいにかっこよくない。人を感動させもしない。「卵」の比喩に喝采をおくった人たちは、これらの作品をどう読むのだろうか。
別に突っ込まなくてもいいんだけど、日常の機微を描く小説を楽しむことと、気になる人の振る舞いにやきもきすることはレイヤーが違うと思うよ。なんかまるで政治バカはろくに小説も読めない感動厨みたいな言いぐさじゃん(そうだったりして!)。
具体的な日常と抽象的な非日常はつながっている。ふだん市井でのらくら過ごしている僕たちだって、なにがしかの厳しい選択を迫られることがあるかもしれない。この国の平穏な日々は遠い地の悲劇とぜんぜん無関係でない。いつか来るそのときに、卵の側に立つにしろ壁の側に立つにしろ、自分がなぜそうするか、自分の意見を語り得るようになるべきなのであり――そして、ひとりの作家がそのお手本を見せたわけだ*2。