そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

言葉に罪はなく、されど

あくまでも個人的な話だが、「超絶技巧」という言葉がどうも好きではない。

フランツ・リストの作曲でも「超絶技巧練習曲」という難度の高いピアノ曲があるそうだが*1、僕がこの言葉を知ったのはたしか漫画だったと思う。その時は、もちろんなんとも思わなかった。一瞥して意味もわかった。便利な言葉ではある。

そして、今ではその文字を見るたび、「美の巨人たち」というTV番組のナレーション・俳優の小林薫の抑揚のない声が脳内で再生され、なんとはなしにうんざりした気分になってしまう(小林薫さんに悪気はありません)

美の巨人たち」でも ことあるごとに「超絶技巧」「超絶技巧」言っていたが、もちろん「江戸時代の自在置物が超絶技巧」とか「伊藤若冲の筆致の超絶技巧」とかくらいなら、そりゃ100年200年の歴史を乗り越えた美なのだから それくらい言ったって許されなくもないだろう*2

しかしそれにもまして様々なところで「超絶技巧」という言葉が使われすぎて、ついには食傷した。ちょっと好ましい程度のものを見てそう言ってしまう人も結構いる。

「言葉に手垢がつきすぎてしまった」

こういうふうに思ってしまってはもうだめだ。

僕はこの先、なにか超越的な工芸を目にしたとしても、「超絶技巧」などと口が裂けても言わないだろう。たとえ僕以外の人が誰ひとりとして「超絶技巧」という言葉にネガティブなイメージを抱かないにしても。自身が心の中で価値を見出さない言葉を使って、それを賛辞とすることはできない。

「貴様」という言葉は、かつては貴人に対する高い敬意をもった呼びかけの言葉であったのが、時代が下るにつれ同輩や目下の者、さらには敵意の対象となる相手を呼ぶ言葉になってしまったというが、それと同じような作用が、個人の心の中で起きているのだろう。

ほかにも「難しい言葉を度々使うと、かえって頭が悪く見える」と同時に、その言葉自体が「頭の悪そうな人の使いがちな言葉」と認識されてしまう、そういうこともありそうだ。

誰もが言葉を操り、それを記録に留められる時代にあって、何を、どのように語るか、どのような語彙で語るか、ということにも気を遣わなければならないのだ。自らの言葉づかいが、長く命脈を保ってきた言葉そのものを貶めてしまうことに対する虞れを、心の片隅に留めておくべきなのだと。

言葉が流転することそれ自体が抗いがたい運命であるにしても、言葉を使う者の、ひとつのモラルとして。


※特に関連のないおまけ
比較的なんということもない普通の言葉の中で

やたらと目立つトランスフォーマー (※ユーザーローカルによる@islecapeのTwitter解析

*1:この記事を書いたあと、曲の原題の意図とは違い「超絶技巧」という訳語が使われている、という指摘( https://twitter.com/minus_nana/status/730363614184546304 )を受けた。 cf. http://classic007.web.fc2.com/list/works_pia/tyouzetsu_piano.html

*2:そういえばNHKの「美の壺」でも「超絶技巧」は多用されていたような……