オンラインに生きる(PART3)
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20101231/p1 新しい年。たぶん三日坊主も無理。
id:islecapeというアカウントを使い始めてそろそろ3年になる。僕が2008年3月末からWeb上で操演している、テキストを基本に組み立てられたこのオンライン人格。10代でもあるまいし、新たに黒歴史を刻むこともなかろうとか思っていたのが、なんかあれあれおっとっとという感じだ。
まあそれはいい。
いまさら言うまでもないことだが、インターネットを用いたコミュニケーションが普遍化し、遠く離れた人とも作業ができるような時代である。顔をあわせたこともない人たちの共同作業によって創りだされた作品が熱狂的に世に受け入れられる――というような状況を横目に、指をくわえながら「選択を間違えた」などと思うことがある。10代のころ、僕はけっこう本気でゲームを作りたいと思っていた……のだが、文章と絵と曲とプログラムに手を出して、なにひとつものにできなかった。根気もなかった。「どれも全部」でなく、「どれかひとつ」に傾注して、あとは他のジャンルに秀でた仲間を探すようにしたほうがよかった、というようなことは時おり思う(そうなったらなったで、共同作業も苦手なので空中分解するのがオチかもしんない)。
まあそれもいい。
「Webでつながる、共同制作仲間」は、いないけれども、僕もWebの恩恵はそれなりに受けている。新聞に投書するとか、雑誌にイラストを投稿するとかいうようなことにはあまり興味がない。採用されるかどうかわからないものに情熱を傾ける純粋さは、僕にないのである。そうした性格のものにとって、誰かのフィルターを通すことなく(耳目を引けるかどうかはともかく)表現できるというのは*1精神衛生上たいへん結構なことのように思う。創作したものを発表する障壁は、少なくともこの国ではないといってよい。「政治的ハラスメント」とか言われそうな発言も検閲なしで表出させているくらいだ。*2
そういうわけで、僕の稚拙な*3 *4文章が、絵が、曲が、そしてあるいはプログラムが、オンライン上でislecapeを構成している*5。そして、その、いまこうしてid:islecapeを構成している「記録(ログ)として表出された要素」が誰かの目に止まり、誰かの中に記憶され、そしてまた新たな付加価値とともにWebに発信されるというようなことも、おそらくはあると思っている。つまり「僕」の構成要素が、別の人のものになって、どこかに現れる。このアカウントのログを更新するものがいなくなり――あるいはこのアカウントが依拠するサービス事業者が消滅し――アカウントIDが失効しても、僕の発したたった一言が、どこか僕の思いもよらない別の場所に残るかもしれない、と。
おそらく残るだろう。僕が生まれるより前の時代を生きた人々の言葉が、書籍などを通じ、僕や他の多くの人のなかで生き続けている。そうしたものに比べれば影響は微々たるものだろうが、ゼロではない。今とりあえず存在している僕の中にも、さまざまな人たちから発せられた言葉があり、絵があり、音楽が記憶されてある。助けてくれるプログラムは数えてもきりがない。直接の交流のない、本来なら存在を知ることもなかったような人たちから生み出されたものが、Webのおかげでもって僕の中に取り込まれ、生き続けている。これらは少なくとも僕がボケたりしないかぎり有効だ(もう充分ボケてるとか言われると困るけど)。
僕が書くものに、誰かが何かしら影響を受けることがあるとすれば、それは僕が有名無名さまざまな人々から受け取ったものが、さらに命脈を保つことでもある。舌にタコができるほど言ったような気がするが、人間は、存在するだけで一人ひとりが「メディア(媒介)」である。そして、われわれ一人ひとりが発する言葉(ここでは「表現」と同じような意味あいで使っている)もまた「メディア」になる。本や、テレビや、インターネットももちろん「メディア」であるが、それらの「メディア」が伝える「言葉」もまた、我々自身と「なにか」――例えば「知」であるとか、「美」であるとか――を仲立ちする。有機的な生命と、電子的な情報が、その種別の違いを超えて相互補完していく。*6
ゆえに書く。
断片的なフレーズ、グラフィック、メロディになって、それで生き続ける。断片は形を変えながら細々とでも受け継がれ、完全に消えることはたぶんない。
オンラインで生きる。
オンラインに生きる(PART1)
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20090503/p1
オンラインに生きる(PART2)
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20090503/p2
*1:ファイル形式の制約はあるが。
*2:参入障壁の撤廃で、しょうもない言説が流通するようになったというようなことはある……。誰のチェックも受けていない言葉だからこそ、発言者本人がすべての責任を負わなければならないというのはその通り。
*3:あと二十年三十年続けていれば、もうちょっとましになっていくと思うけれども。
*4:というようなことは前にも言ったような気もするけれども。
*5:もちろんその記録は時として「実在する僕」や「現在の僕」や「未来の僕」と合致しなくなり、要素が交換されることもあるのだが、そうした「リアルの僕とネットの僕の整合性を求めるメタ存在としての僕」のことはとりあえずさておこう。