そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

美と政治の接近

ある有名な小説家*1に対し、イスラエル文学賞が授与されることになった、という話を聞いたとき、本人をよそに勝手に揉めそうだな、と思った。そしてやはり揉めている。もし彼がその賞を受けたら、彼の評価は変わるのだろうか。そのエルサレム賞とやらを受けることが非難されるのなら、アメリカの賞も日本の賞も受けられないなあ。無冠でいるしかない。それこそ時の内閣の人気取り目的の国民栄誉賞なんか。

ちょっと話がずれるが、僕自身、コードウェイナー・スミスの人生がフィリップ・K・ディックみたいな人生だったら、もっと好きになれるんだがなあ、なんてことを考えたこともある。でも、最近ではどうでもよくなってきた。『舞姫』を読むときに、いちいち森鴎外の人生を勘定に入れなくてもいいんじゃないかというふうに。ゴッホの絵はそれだけでじゅうぶん暑苦しいし、モーツァルトの未完のレクイエムはそれだけでじゅうぶん神秘的だし。

チャップリンの『独裁者』は、ヒトラーの存在なしでは作られなかった作品である。そのことについてとやかく言うことはできない。しかし僕は、カレル・チャペックの『山椒魚戦争』に付け足されたヒトラー諷刺のエピローグがどうも蛇足のように感じてしまう。あれは必要なかったのではないか、と。

もちろんチャペックの場合、チャップリンよりもナチスの脅威が身近にあったわけで、それでなおあのような表現をしたことはまさに矜持ではあると思う。そういう意味ではケストナーなども称賛に値するし、カラヤンハイデガーが叩かれるのもむべなるかなとは思う。しかしワグナーはどうなる。ヒトラーが好きになるような作品を作ったのが悪いのだろうか?(※2010/09/06追記:あとあと、右のような話があることを知った⇒http://twitter.com/islecape/status/21224810894

美が政治に接近することは、ときとしてあるかもしれないが、大抵は無関心でいると思う。政治が美に接近することのほうが多い。しかし美はやはり美である。そしてそれが政治に蹂躙されてなお美しいのであれば、それはあるいは本当の美なのかもしれない。それに、ワグナーは死人なので動揺しないが、周囲の環境激変に翻弄されてしまうレオナール藤田みたいな人もいる。それはそれで興味深いけれども。

*1:以前、僕がその小説家から「影響を受けたのでは」などと言われたことがあるのだが、じつは読んだこともない。