そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

「表現の自由は他者を傷つけることも当然視する」と主張した人を批判していた人へ

※冒頭付記(副詞、指示代名詞、こなれない表現など可能なかぎり元の文から意図を外さないよう修正。誤字脱字訂正。一部文言追加。最終更新日時・2011年1月14日午前2時9分)

僕も日本の現在の人権状況について懸念は感じています。また、そうした現状についてまったく考慮することなく「表現の自由」を主張してそれで済ませようという場合、「表現の自由」が差別構造の現状追認、もっといえば差別構造の温存・推進に働く点は否めないとも思います。しかしそれでも僕は「ヘイトスピーチの規制にも反対」と書きました。ここではそのことについて考えてみます。

まず、彼の「倫理観」ですが、これについては僕は何も言うことがありません。

理由はふたつ。

1:彼がどのような論を展開していたか、ブログがプライベートモードになった今となっては確認できないため
2:人が「関係性」の中で生きる存在である以上、その倫理観の表明と行使とは他者に影響を及ぼすことを避けえず、時に内心の自由さえ公に問題とされうることもあるだろうが、「共有されるべき倫理」については、あくまで個人的な問題なので、あえてここで取り上げる必要はない*1

さて問題は、彼が「他者への人権侵害を許容する」ということの矛盾を指摘した部分です。

うろ覚えですが、あなたは彼に対し、件の記事コメント欄で「『あなたの論は不快だから黙れ』という表現も通ってしまう」というようなことを書かれていたように記憶しています。これについて僕は、「対抗言論が強制力によって阻まれない」かぎりにおいては問題ないと主張します。

つまり、

「お前の言うことは不快だから黙れ」
「いいえ、黙りません。あなたの考えは間違っています。まず……(略)」

――といったふうに、その後も延々と話が続くような状況を想定するかぎりにおいて「表現の自由」は矛盾せず機能しているとみなします。

もちろん、

「お前の言うことは不快だから黙れ。さもないと殺すぞ」

と言った場合――とくに、実際に目の前で凶器を持って「黙らないと殺すぞ」などと言った場合――これは表現の自由の問題ではなく脅迫そのものであり、表現規制以前の問題です*2。まったく相手の顔も住所も知らないような場合は、基本的には受け手がどう感じるかでしょうが(余計な面倒に巻き込まれたくないWebサービスとしては、直接的な脅迫的言動は法律以前に厳しく取り締まるでしょう)、もし仮に対象のログを事細かに調べて「月曜はここで食事していたのか。火曜はここで買い物していたんだな、後ろに気をつけろよ」みたいなことを書けば、これまた疑いようもなく脅迫になります。

というわけで後二者は言うに及ばずです。しかし、具体性を伴わない前者についても「受け手の感覚」に帰すと、もうひとつ問題があぶり出されます。つまり、

「お前の言うことは不快だから黙れ」

と言われた「だけ」で恐怖を感じてしまう場合です(僕は誰かに批判されたとき、あるいはそうしたコメントにスターが付いていたときなど*3人並みに落ち込みますが、一晩寝ると忘れますので、それなりに耐性があるのでしょう*4。言うまでもないことですが、ここで「だけ」と書いたのは「ささいなことで大騒ぎしやがって」などと矮小化するためではありません)。犯罪や事故の被害者など、なんらかの言葉がPTSDを誘発することもありますし、「精神的強度は人それぞれ」というだけではすまない問題ではあります。Web上でのやりとりは基本的に文字だけなので、言いたいニュアンスが伝わらないこともあるでしょう(顔文字を使わない僕などには非常に重大な問題です)。「殺すぞ(はぁと)」みたいなものをどう判断すべきでしょうか。ある文化では通じるものが、外部にはその内輪意識が通じず大騒ぎになるといったこともありました。「こうなご」とか。なんにせよ、「表現の自由は他者を傷つけることも当然視する」と言ってそれでまったく省みないことには、僕もためらいを覚えます。

ただ、僕の考えでは、「表現規制」というのは「対抗言論を強制力で阻む」ということです。ここでいう「対抗言論」ですが、言論的価値については考慮しません(そうした価値を判断するのは、当事者及びそれを見守る人々です)。たとえば*5女性差別的な性表現に対し、規制の網をかけることで表現者や受け手の萎縮効果を狙ったり、あるいは「猥褻物」と規定して摘発したり――でことを済ませようというのは結局のところ無知の再生産にしかなりません。たとえその無知があらかじめ導かれた「正しい意見」を信奉するとして、しかしそのような「正しさ」について省みる経験を持たなかった無知には、別の過ちを犯す恐れがあります。そう考えるとき、僕は「表現の自由は他者を傷つけることも」あるから規制してよしということはできません*6

たしかに「南京で虐殺は一切なかった」「従軍慰安婦はみな自発的なものだった」「満員電車に乗っているから痴漢に遭遇する」「現政権は(な、なんだってー以下略」といった、表現の自由の名において保護するにはあまりにも基本的なものが欠落している主張に対していちいち丁寧に批判する人の労力を考えると、そうした「表現の自由フリーライダー」的なものへの批判にとくだんの貢献をしていない僕が、「表現の自由」をこの社会の根本原理として「ヘイトスピーチの規制にも反対」と言い募ることに批判もあるとは思うのですが――そもそも法律というのは成立だけが問題なのではなく、運用それ自体がまた重要です。社会をメンテナンスする労力は、「差別規制」が抑圧装置として暴走しないよう監視する場合も、差別的言辞を個々人が批判する場合も同じで、むしろ強制力にお墨付きを与える前者のほうが、「万が一のリスク」は高いように思えます(強権的な抑圧装置が誕生するかもしれないという意味で)。そもそも「表現規制」をすれば、あとはメンテナンスフリーというわけにはいかないはずなのですが、その社会的合意があるかも疑問です。そうした面も鑑み、僕は表現規制に対し反対を主張しています*7

一つ前のエントリでも書いたのですが、こうして書きなぐった「言葉」が誰かになにかしら影響を与える可能性を考えるとき、僕もうかうかはしていられません。箴言であろうとヘイトスピーチであろうと、口で発した言葉は、基本的に(その場に居合わせた相手を緩衝材として、その他の多くの人々にほとんど影響をあたえることなく)消えますが、しかし口で発した言葉を模して記録されたログは、そのまま長く衆目にさらされます(埋もれる場合もありますが、ふとしたきっかけで見直される可能性はゼロになりません)。自分で消しても、引用され、転載されることがあります。それが世の役に立つならまだ救いもありますが、往々にしてそうはなりません。いちど発した言葉の責任を死ぬまで引き受けなければならない時代と言いますか。

Webは(とくにソーシャルメディアによるコミュニケーションは)われわれの「メディア」(媒介)としての影響力を(常にではないものの)増大させます。多くの人に見られることを意図しないつぶやきや、勘違いによる的はずれなコメント、とんちんかんなエントリ(もしかしてこれも?)、そして悪意が、ときとしてとんでもない騒動を引き起こします。われわれは常に自戒し、警戒しなければならない時代を生きています。自分が広めた間違いは、自分の責任において可能なかぎり訂正するよう努めなければなりませんし、それだけでなく、みすみす広まっていく「誤解」や「悪意」を見過ごすわけにもいきません。

おそらく、こうした状況を受け入れることが、Web(ひいてはWebが当然のものとしてある今の社会)への参入条件なのだ――と考えるべきなのでしょう。「Webはもう特別なものではない。特別な人間ばかりでなく、誰でもネットに接続するのだから」というような、水を低きに流すみたいな話にしてどうすると思います*8。このような時代に、無意識にしろ勘違いにしろ悪意にしろ差別的な表現があるとして、法によって規制しようというのはある意味楽ですが(もちろんあなたが楽をするために規制を主張しているわけではないことは承知しています)、それは草刈機で芝を刈るようなもので、「根元」が残ります。そもそも、Webにおける情報伝播の速度・規模を考えると、「規制」による解決は、権力にどれほど強権を与えたところで無理です。それで「被害の最小化」がかなうでしょうか。むしろ悪意や偏見を解消するのは批判を含む「対話」であると思いますし、そうでなければならないと考えています。

そして、表現の自由こそ「譲ることのできない前提条件」なのだ、と。



ややネット利用を当然視して話をしましたが、こんな感じです。




追記:以下、いただいたブックマークコメントに対する応答

Domino-R
理屈としては全く異論がない。ただ現実に、たとえば「社会のメンテナンス」の主体が各個人ということなら、結局新自由主義におけるような自己責任論のもたらす問題(弱者の圧迫の正当化)を容認することになる。

T-3don
人権 ”「表現規制」というのは「対抗言論を強制力で阻む」ということ”対抗言論をベースにした言論の自由市場のお話……なのかしら。

nisshiey_s1
ブログ, 人権, ヘイトスピーチ, 表現の自由, 表現規制, 人権侵害 そこまで表現の自由を重視するなら、自由の濫用には厳しく対処すべき。でないと弱肉強食でしかない。

コメント欄で書きましたが、僕は経済問題、社会保障、外交・安全保障分野に関してはリベラルですけれども、こと表現に関しては極端な自由主義の立場にいますので、そうした批判はおっしゃるとおりかと思います。個人的な理想としては「すべての人間が最大覇権国家の元首になれる能力を持つようになれば世界は平和になるだろう(あるいは公平公正な「万民に対する万民の闘争状態」が実現するだろう)」というような考えなので、こういう書き方をしています。

つまり、

y_arim 表現の自由 逆巻く波間の小舟の上で1000年 一度乗り込めば二度とは降りれない

おそらく有村さんと同じようなことを考えているように思っています。

もちろん、この僕の理想は明日あさってどうこうというものでもありませんし、「弱者」が存在する現代社会においては「弱者の圧迫の正当化」に働かないような調整機能を考えなければならないでしょう。ただ、それは「表現の制約」ではないと(僕が考えていると)いうことです。

Mikagura 表現規制 概ね同意。ただ、「表現の自由は他者を傷つけることも当然視する」という主張に対する批判それ自体は真摯に受け止められてしかるべきだと思う。ブログヌシも軽く見ようとしている訳じゃないと思うけど。

medapan 社会  大筋で同意はできるものの、対抗言論を張る際の物理的・精神的コストに大きな非対称性が存在する場合にその原則を適用することが正しいのか、正しくないとしてどう正すのか、その辺りの論立てが自分の課題です。

それは僕にとっても同じで、むしろ、「表現を規制するな」と言った僕のほうが「非対称性」の認識についてより厳しく問われることになるでしょうし、それは当然です。


KIM625
表現の自由, 表現規制 [死ぬまで言葉に責任を・・・」の下りにこそ「無限責任」を感じるのだが。

「無限」責任とまでは言いませんが、ある面においては、それに近いことを考えているような気もします。もちろん「ブログで誤った情報を書いたので死んで詫びなければならない」とか、「社会的に抹殺されなければならない」とは考えていませんが、ブログを閉鎖してしまうとか、応答を求められているのを放り出して別のエントリを書くというのはあまり褒められたことではないと思います。間違いであったことを認め、訂正すればそれで責任を果たしたことになりますし、あくまで自説が正しいと思うのであれば、引き留まって論を展開すべきです。ある人が意見のわかれる論を主張して、その人が自説を撤回せず、多くの人が批判する状況があるとしましょう。その人が批判にあるていど誠実に応答するなら、「すこし待ってください」と言ってもそれで「責任を果たしている」とみなしていいと思います。なにも私生活をなげうってすべてのコメントに一時間以内に返答しなければならないとは言いません。(これでKIM625さんの疑念に対する回答になっているでしょうか? http://d.hatena.ne.jp/KIM625/20110111/1294732783 こちらで書かれていることと見ている方向はそれほど変わらないように自分では思っています。)

「このブコメはあなたに向けたものじゃないんです。解りにくくてごめんなさい」という追記があったので打ち消し。


Cunliffe
「いちど発した言葉の責任を死ぬまで引き受けなければならない時代」昔からそうですよ。

「昔から『ある程度』そうであった」という限りにおいては同意します。しかし一方、就職活動において「Twitterのフォロワー○○人以上、Facebookのフレンド○○人以上」というような条件を課す企業があるそうです(「ごく一部」のIT関連企業ですが、そうなると学生は自らにしっかり紐付けたWebアカウントを運営しなければならず、しかもそのログは事実上消せません。一度悪評がつけば、それが全国・全世界に知れ渡り、一生ついてまわる可能性もあります)。このような状況と、中高生、早ければ小学生からWebに書き込みをするようなネットメディアの普遍化、そして「タクシー運転手へのあなたの無礼な振る舞いはその場限りだが、それをブログに書けば一生つきまとう」*9というようなWebで発言するにおける警告を考えあわせると、どちらを過大/過小評価するといったことでなしに、やはり今と昔の社会の性質は違ってきているように思います。


silvermoai 漫画の話にするとあの規制の関連で「漫画にタブーは無い」「漫画には自由しかない」と堂々と言い切った漫画家ってほぼゼロなんですよね。読者を犯罪者に追い込むぐらいの迫力のある作品が無いのが残念。

なにしろ、犯罪者の愛読書だったというだけで槍玉にあがりますからね「トライガン」とか「瑪羅門の家族」とか。僕はどっちも読みましたが、まあなんとか。


md2tak メタブ有 ミルは反対意見はむしろ喜べといってるぐらいだからね。/表現問題を考え始めて気づいたことは「影響を与える」とか「心が傷つく」という語がとても乱暴でいい加減で扱いにくい言葉だということ。または決定論的か。

「心が傷つく」をてこにして意見を通そうという、強心臓な人も決してゼロではないでしょうけど、しかし、実際に「心が傷つ」いている人が存在することは否定のしようがなく、また無視していい問題ではないので、そこが悩ましいところです。それにまあ19世紀紳士的フェミニストであるところのミルは、いまの社会にあふれる性表現に好意的になることはないでしょうね……


hal9009 そのうち「心が傷つく」も神経系へのダメージとして客観的に認定可能になるかもしれないけどねw。スポーツにおける階級のように能力別に表現を選別していけるといいのかもなぁ。ただそれを支えられる経済的合理性が

「強制力がなければ問題なし」と書きましたが、「言葉の暴力」という概念も一般的になってきましたし、おっしゃるようにそのうち認定基準は変わるかもしれませんね。


Mukke 表現規制問題 internet 議論 あとで読む 取り敢えずなんら強制力の伴わない「黙れ」はもっと言っていいよね,ということで(ぇ

いいえ、黙りません。なぜなr

*1:ふだんは「理由はみっつ」と書いて「ふたつだった」というギャグをやるのですが、きょうは真面目です。

*2:ラディカルな立場では、これも「表現の自由」の範疇に含める向きもあるかもしれませんが

*3:人格を攻撃されているわけではないと思いつつも

*4:忘れっぽいだけかもしれませんね!

*5:意を尽くせていないので一部書き換え。コメント欄参照 http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110111/p1#c

*6:【たとえば女性差別を理由に性表現を規制するとき、僕は強く反対することにためらいを覚えます。しかしそれで仮にそうした規制が通ったとして、女性差別がなくなるかといえばそんなことはなく、無知の再生産にしかならないでしょう。このような想定をしているので、表現の自由の規制はやはり受け入れられないのです。つまり、多数派である男性への批判が行われるべきなのです】というニュアンス コメント欄参照 http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110111/p1#c

*7:例の都条例は「ただの」販売規制だという意見もありますが、法律のくせに「不当に賛美」とか言ってる時点で大問題だと思います。あれは「強権的な抑圧装置」が自らをして社会に自らの足場を築こうとする意図の表れのように思えます。

*8:そうなると、「サバルタンをどうする」というような批判も出てくるのでしょうが……

*9:ウェブログ・ハンドブックという本のうろ覚え引用。あとで正確に引用しなおします → 引用しました:「インターネットと実生活のもう1つの大きな違いは,オンラインで言ったことは全て永久に残るかもしれないということだ」・「あなたが(柄にもなく)起こしてしまった癇癪を,望めば誰でも見られるとなればどうだろう。もしくは,ある朝,5分前に始まった重要な卒業試験への途中で足止めを食わせた運転手に向かってあなたが行なった辛辣で個人を軽蔑するような発言だったらどうだろう。そして,たとえそれらの行動の後に感情溢れる謝罪を行なったとしても,後に続く発言や謝罪のコンテキストが,それを引き起こした出来事と一緒に扱われるという保証がないとしたらどうだろう」(Rebecca Blood著・yomoyomo訳『ウェブログ・ハンドブック―ブログの作成と運営に関する実践的なアドバイス』毎日コミュニケーション、2003年12月24日初版第1刷「オンラインに生きる」179頁)……タクシー関係なかった。