そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

オンラインに生きる(PART2)

(このエントリは5/28に投稿されたものです)

例によって三行でまとめよう。

1:Webはメディアでありコミュニケーションツール。権力であると同時に教育などを行う場である。

2:Webを使った悪意に無自覚な発言は権力者の愚かなふるまいそのものであり、またWebを無価値と軽んじることはWebがもたらすかもしれない理想に背を向ける無責任な行為である。

例によって三行いらなかった。


メディアは権力、といって話は通じるだろうか。メディア「と」権力ではない。メディア「が」権力と言っているのである。表現には「力」がある。時に人を救うこともあるが、往々にして人を傷つけるものでもある。

自分の表現を、Webという大きなコミュニティに属するすべての人がアクセスできる「場」に残すということは、端的にいって不特定の誰かを傷つけることをもいとわない行為である。一方でまだこの力を持たない人は存在するので――はじめから排除されているか、参加することはできても躊躇いがあるか、あるいはまるで興味がないか、いずれにせよ――「表現をする」ということはいまだ「特権的行為」なのであり、そういう意味での「権力」である。現実の世界で衆目に晒される場に差別的言辞を書くことが非難されるなら、Webもまた然り。公開範囲が広くなるぶん、責任はさらに増す。

多くの人がこのささやかな権力を手にするようになった。それでかえって権力の価値は相対的に下がったとはいえ、皆に「権力者の自覚」がなくていいわけはないと思うのだが、といって、それがあるようにも思えないことがある。発言はするものの連絡手段を公開せず、書きっぱなしで責任を持たないような人がいる。それは権力の自覚に乏しいというばかりでなく、社会が生み出したこの新しいメディアの価値をも毀損することだと思う。

「すべての人々が対等な能力を持つこと」というのが僕の理想である。これは、「すべての人が平等であること」とは少し違う。能力は対等でも、ときにパワーバランスが不均衡になることはありうる。そんなとき、劣位に立たされたすべての人がその立場を甘受することなく、カウンターパンチを飛ばせる意志と能力を持つ時代が来るといい。「誰もがアメリカ大統領になれる能力を持つべき」みたいな感じ*1

その最初の取っ掛かりになるものこそ、知性と、それを発揮させる装置――つまり教育とWebへのアクセスの保証だと僕は思っている。特にWebは、パーソナルなメディアであると同時にコミュニケーションツールでもあり、うまく利用して教育効果を期待することもできる、理想的なテクノロジーのように思う。

であるからこそ、Webに対する幻滅が語られるようになる昨今、僕個人としては、人々が今のサイバースペースのありようを嘆き、「Webに価値はない。そこそこの付き合いでいいや、現実のほうが大事だ」というような主張をすることは、最初に述べたような、Webを粗略に扱うことと同じくらい無責任な態度のように感じる。

Webは現実と無関係のファンタジーではない。しかし現実の延長――あるいは一部でしかないのも確かだ。「Webの充実より現実の貧困、抑圧、差別への対処のほうが急務」という主張はもっともだと思うし、そうした活動をする人はとても立派である。しかし、そういうふうに自分の当為を比較した結果Webへの参与を保留するわけでもなく、ただ「今のWebは現実の役に立たず、自分に意味がない」というのはあまりにも現世利益的すぎる。

「Webにコミットするつもりはない」と主張する人は、現実に対してもコミットしない人ではないか。「Webに価値はない」というなら「Webを価値化」すればよいのである。現実を前に理想を捨てるような言いぐさのように思える。人生の優先順位はいろいろあるだろうが、なぜわざわざWebを貶めるのか。それはけっきょく何すらも価値化する能力のない自分を糊塗する言い訳ではないのだろうか。

価値化されたWebに触れたすべての個々人が力を得て、万人の万人に対する闘争が行われるようになるべきだと、僕はオンラインの中でそういうことを考えている。Webに生きるとき、代替可能な「アバター」を操り無責任に行動するのではなく、連続性を持った一個の人間として、現実の社会に生きるのと同様に、Webというコミュニティになにかしら寄与するよう皆が努めれば、それが誰かの足掛かりになるのではないかと。

*1:cf. http://d.hatena.ne.jp/islecape/20090208/p0 「五日、木曜日、曇」の「経営者の所得制限」にそんなことを書いた。