そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

0080とUC世界のオーストラリアの件についてちょっと語りつつ落ち穂を拾う

※本記事では、映像作品『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』のストーリーについて、未視聴者に配慮のない言及をします。


前回の記事は、難民とスマホの話題だったのですが、もののついでとばかりにガンダムを名指しして、せずともよい言及をしたところ、その中で『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』(以下「0080」)について作品構造の理解が誤っているという指摘を受け、コメント欄で反省の弁を残しておきました

折しもこのような話題がありましたが、

「いじり」という下品な笑い - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/886481

先だっての文章も、ガンダム鑑賞者の内輪ウケ狙いの度を超えたものだったなあと反省した次第です。

このうえなにか言うのは、「我が国の植民地支配については歴代の政府が謝罪・反省しているのと同様の見解を持っている」とか言った翌日に「でも別の国もやっていた」みたいなことを堂々と述べる政治家みたいで感じ悪いとは思いますが、(政治とちがって)感じ悪いくらいで済むならまあいいかな*1


……


僕にとっての最初のガンダムは『機動戦士Vガンダム』(1993)。それも、ほんのちょっと見て特に気にならなかったので、最初の数回と最終回を見ただけ、ぐらいだったような気がします。

ガンダムの原作者であるところの富野由悠季は、よく「子供に見てほしい、大人は手遅れだから」みたいなことを言っていますが、その点で言うと僕は富野監督の投げたボールを受け止めそこねた子供であったということになるでしょう(次に見た『∀ガンダム』の頃もまだギリギリ子供でしたが、その時点でもう拗ねた子供だったので手遅れ)。

したがって、「コロニー落とし」というものがどういうことであるか知ったのは、ドリームキャスト版のゲーム『機動戦士ガンダム外伝 コロニーの落ちた地で…』ということになります*2。この作品はオーストラリアが舞台でした。僕はガンダムに特別な興味もなく、昔のゲーマーなのでキャラゲーにも否定的なほうなのですが、これはわりと評判がよかったので。

さらにそれと相前後して『M.S.ERA 0099 機動戦士ガンダム戦場写真集』というハードカバーの書籍も購入していました。こちらは「0080」のスタッフが関わったイラスト集(の新装版)です。「ジム・コマンドの頭部がビルの間に挟まっているのをベビーカーを押す母親が見ている」というイラスト(タイトルはGM HEAD)を広告で見かけ、それに惹かれて大枚払いました(子供が買うにはちょっと高すぎた本でしたが)。


今でも持っています。


コロニーが落とされたオーストラリアです。


これキャンベラもないのでは…

このように、「オーストラリアはジオン勢力圏、そしてシドニーは大穴」という情報が頭のなかにインプットされた状態で、21世紀になってからDVDで0080を見たわけです*3 *4 。さあ、同じ立場にあって連邦軍兵士が「いまごろ町(シドニー)は雪で真っ白だろうなあ」という寝言を看過してもなおずっこけない者のみ石を投げるがよい。

これは要するに、シャーロック・ホームズ作品で例えると「恐怖の谷」*5でモリアーティ教授のことを知ったはずのワトスンが、「最後の事件」*6でホームズに「きみはモリアーティのことを知っているかね」と言われて「知らないねえ」と応じた、というようなよくある話なのでした。たいへんよくわかりました。


……


0080コナン・ドイルのように単独の作者による作品でもなく、「オーストラリアは、今は冬だぞ!」は「脚本家の限界の例示」として不適切であったわけですが、そうとしてもつつかないでよい重箱の隅にすぎません。(トミノ的に)対象年齢を超えて視聴した0080は、大人の鑑賞に耐えるものではない、やはり子供向けの作品かなあ、という気はしました。

ちょっと直せば動くザクをそのまま放置してみすみす修理され、しかもそのザクにみすみすアレックスを破壊されるとか*7、怪しげなトレーラーを調べようとしたら、子供に車を壊されてそれをなだめているうちにトレーラーに逃げられ、子供もとくにおとがめなしで解放したらしいとか、もちろん好意的に解釈しようとすればいくらでも理由は考えられますが、「最終的にどうしてもMS戦をさせたいんだな」みたいなものを感じてしまい、どうしても乗れませんでした。とはいえ、このあたりは「アンパンマンはなぜバイキンマンを殺さないのか」とか「プリキュアの敵は女子中学生相手になぜあんなに手ぬるいのか」みたいな一種のお約束にけちをつけているようなものなんですよね。つまりそれは、逆に言うと…

ということはみなまで言いますまい。アンパンマンプリキュアで泣く人もいるのですから、ガンダムが琴線に触れて泣く人がいても、まったくおかしくはありません。僕はそうではなかったという話です。

次の二文字に私は悲しいほど弱い。「野球」である。小説『シューレス・ジョー』は映画化され「フィールド・オブ・ドリームス」になったが、演出で泣かされるような場面はへっへと鼻で笑ってもいられたが、小説にもあった次のセリフはいかんともしがたく私の「琴線」に触れる。主人公は自分の幼い娘に次の言葉を語る。
「レフトの選手をよく見ててごらん。お前が野球について知らなければならないことは、みんな彼が教えてくれるよ。ピッチャーがサインをのぞいて投球姿勢に入るときの、レフトの足の動きを見てなさい。すぐれたレフトはピッチャーがどんな球を投げるか知っているし、バットの角度から、ボールがどこへ飛んでくるか、そして名人級なら打球の速さまで判断できるんだよ」
どうしてこんな言葉が「琴線」に触れるのか私にだってよくわからない。「琴線」とはそもそもそうしたものなのだ。もしかすると「キャッチャーミットが」と聞いただけで涙ぐんでしまう者が存在するかも知れないのだし、「ほら、二者残塁」もまた、ありえないとは限らない。

そんなこんなでへっへと鼻で笑いながら全6話。ラストバトル後の「ミンチよりひでぇよ」は、いいとして*9、アルがアレックスのパイロットを認識してしまうあたりは不要な演出ではなかろうか…なんてことを思いながら見終わって、「なにやら評価が高いようだけど(DVD vol.1&vol.2で)10000円超えてこの脚本かあ」といった個人的な経済的鑑賞上の不満を抱いた記憶が僕の内心でこの作品を軽んじる結果となり、めぐりめぐって問題の表現につながったといったところでしょうか。


バーニィのビデオメッセージのあたりでは、なんとなく「これは、アルが大きくなってから過去を回想しているのではないか」という印象を受けました。連想したのは映画『スタンド・バイ・ミー』(原作未読)のラストシーンで、成長した主人公がタイプライター*10から離れ、子どもと遊んでエンドロールといったような光景です。

そんなふうに大きくなったアルがバーニィの歳を追い越し、そして折にふれて自分が死に追いやった“兄”の思い出に心の奥で痛みを覚え…というようなことを考えていたのですが、2007年に新装版DVDが出た際、コマーシャルで成長したと思しきアルが悲壮感のかけらもないどっちかというと純粋に感謝をこめたような声で「バーニィ、忘れないよ」みたいなことを言いだして、「いやいやいやそれはないだろう何言ってんだコイツいいのかそれで」と違和感を覚えてしまったことはありました(そう思った人は僕だけではないでしょう)。

もっとも「バーニィの死によってアルは精神を病み、自殺未遂を繰り返したり薬物依存になってボロボロになっています。ということで、DVDのコマーシャル用に15秒の脚本を書いてください。そういうふうに演じてください」と言われてもなかなか難しいだろうなあとは思いますから*11、やっぱり「それは違う、なっとらん。ぷんぷん」などとまでは言わないでおくのがいいのでしょうね。書いてるけど。


いけない、描かないマンガ家みたいになってきた。

ということで、この話はここまで。

*1:追記:この記事を書いて寝てプチ炎上する悪夢を見て午前3時58分に目が覚めるくらいには自分でも気にしてます。

*2:ちなみにこの作品のキャラクターデザインは小林源文でしたが、ウサギの兵隊の話 http://d.hatena.ne.jp/islecape/20100719/p1 を描いているということまでは知りませんでした…

*3:その後再放送やらバンダイチャンネルやらで結局初代からレコンギスタまで、劇場版も含めてシリーズ全部一通り見ました

*4:が、オルフェンズはまだ見ていない

*5:発表は1914年。作品は1880年代終わりごろの話

*6:発表は1893年で、作品は1891年の頃の話

*7:これがもしアムロのもとに届いていたらシャア死んでたのでは? …というようなことは言いませんよ。書いてるけど。

*8:平成十二年五月二十五日四刷 169〜170ページ

*9:一方で、ノベライズ作家が小説版の結末をああいうふうにしたのは、とてもよくわかります

*10:もしかしてワープロだったっけ?

*11:後日談エピソードがあるらしいですが未見