英語ひとり勝ちに日本語はなすすべがないと思うよ
「『日本語が亡びるとき』をまだ読んでない」の続き。
僕の「趣味」は、「英米詩や小説の翻訳」ということになっている。
どうも日本人が「趣味」というと、やたら大げさな話になるのが常だが、僕のこの「趣味」に限っていえば、本当にささやかなものだ。だいたいそんなに英語得意じゃない。小説といっても、O・ヘンリーやサキの掌編(Short Story)、どんなに長くてもシャーロック・ホームズものの短編がせいぜい。長編小説(Novel)なんか渡されても無理である。根気がない(それに英語だけだ。漢文はそれなりだったけど、あれは中国語じゃないし。ドイツ語やフランス語も取ってるけど、取ってるだけだし)。
実際のところ、翻訳のほかにも漫画や小説を書いてたりする。しかし、そんなことなかなか人には言い出せないものである。描いているのが「シャーロック・ホームズがワトスンとは出会わず、かわりに人買いによってロンドンに連れてこられたカナダ人孤児のアン・シャーリーと同居することになってあんなことやこんなことになるから18禁」みたいな漫画だったりすることを、僕は必ずしも恥とは思わないが*1、さすがに初対面の人に言うようなことではないと思うし、それにその人が原理主義的シャーロッキアンだったりしたら大変だ!*2
話が大幅にずれたね。
とにかくそういうわけで、「趣味:翻訳」は僕にとっていくぶん「外面用」という側面があるのだが、もちろん「好きなこと」ではあるし、アメリカンコミックなんか原書で買ったほうが安い&日本版が出ない*3こともあるので、まあ「趣味」といって嘘にはなるまい。
で、翻訳の元ネタ探しに有益なサイトといえば“Project Gutenberg”(PG)。著作権切れの作品を収蔵したインターネット電子図書館である。日本ではおそらく手に入らないであろう(あったとしても買えないだろうが)フィッツジェラルド英訳のオマル・ハイヤーム詩集“Rubaiyat”がデジタイズされているのは感激ものだった。
日本にも類似の企画として「青空文庫」はあるが、日本の文芸作品といえば、どうしても明治期以降のものが中心となる*4。収蔵作品の質はともかく、絶対量はどうしても見劣りしてしまう。現代の英語国民がシェイクスピアの文体をどう思っているかはわからないが、少なくとも古語辞典片手に平安時代と江戸時代の文法の違いを考慮しつつ泣きながら古典を読まされるよりは楽に読めるはず。なにしろあれは僕でもそれなりに理解できるくらいの英語だ。
なにしろPGには、セルバンテスやデュマなど英語圏以外からの作品もあるし、なによりそれら外国語圏作品の英訳版も収蔵されている。欧州言語間の翻訳的可搬性を考えると、英語国民どれほど恵まれてますかって話だ。これはもう言語間格差というしかない。これだけをもって「文化の厚み」などというのはちょっと抵抗があるが、やっぱり「普遍語」の強みってやつなのでしょうか?
日本語を知り、かつ英語も知る――ということは決して無駄なことではないし、それを我々のアドバンテージにすることもできるはずなのだが、そこに立ちはだかるのが、日本人の英語での表現力のなさということだ……(というようなことを書こうと思っていたのだが、もうたいがい他の人が言っているのでどう独自性を出したものか)
文章を手入れしつつ、まだ続く。