図書館再雑感
リカーズは皿洗いする元気を出そうと思うのだが、いつもの憂鬱に襲われ、自分の家にいながら他所の人間のような気がしてならなかった。ラークソーケンの風車小屋の、暖炉の燃える石壁の部屋で、ダルグリッシュにウイスキーをご馳走になった時の方が、自宅の居間で、クッションの固いいつもの椅子に坐って、自前の食事をするよりずっとくつろげた。向い側の椅子にスージーの身重な身体がないというだけではない。リカーズは両方の部屋を比較して、この居間が象徴すると同時に原因でもある、深くなる一方の憂鬱に対する手がかりを得ようとした。
(略)
何よりも違うのは、本だ、と、リカーズは思った。壁二面に書棚が並び、さまざまな年代、外見の本が入っていた。使う本、手に取る楽しさ、読む楽しさを味わうための本だ。リカーズとスージーのささやかな蔵書は寝室にあった。スージーはラウンジと呼ぶ場所に並べるには、本はまとまりがないし、ぼろぼろすぎる、数も少なすぎると拒否したのである。最近はリカーズも本を読む時間がほとんどない。蔵書といっても、ペーパーバックの現代冒険小説、二年間入会していたブック・クラブの本四冊、ハード・カバーの旅行記数冊、警察便覧、スージーが学校時代に刺繍の作品を表彰されて、その賞品にもらった本だけだった。しかし、子どもは本に親しんで育てなければいけない。本に囲まれ、両親が読書を勧める環境は、人生の出発点として最高だと、どこかで読んだことがある。暖炉の両側に本棚を作ることから始めるとするか。ディケンズ。リカーズは学校に行っていた頃、ディケンズが好きだった。それにもちろんシェイクスピア。それにイギリスの主な詩。彼の娘は――彼もスージーも生まれてくる子が女の子と決め込んでいた――詩を愛する娘になる。
本というものの効用を否定する人にはなかなかお目にかからない。
ショーペンハウアーくらいか。
ある小説家が、自分の書いた本の巻末に「半年間貸し出し禁止にしてほしい」というアピールを入れたそうな。その人によれば、一年かけて書き上げた本の初版が6千部で、印税収入が96万円。他の本が増刷されて、それでも300万円に届かなかったという。マルクス主義的にいうところの、「労働者が自らの生産物から阻害されている」といったような感じ……
図書館貸出し猶予を…小説家が巻末にお願い*2
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201103080060.html
図書館で新刊本の貸し出し制限は妥当か
http://togetter.com/li/105723
図書館で新刊本の貸し出し制限は妥当か−その2
http://togetter.com/li/106615
ここで、「兼業でやればよいのでは」という意見はあると思う。というか、いた。
水で薄めたカルピスをさらに水で割って、そこによそで買った砂糖を入れたような小説を百冊単位で書く小説家もいれば、読者に新作を渇望されながら、一生のあいだに数作の作品を残しただけでどこかへいってしまう兼業作家というのも、いる。
個人的な好みで言えば、
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存命中の人でぱっと思い浮かぶのは、
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皆がそうなればいいのだろうか? いま、作家志望者はごまんといる。その作家志望者が、ほかに「堅実な」仕事を持ち、生活のために作品を粗製濫造することなく、「小説にするだけの良いアイディアが浮かんだら」仕事の片手間に優れた物語を書き、生涯のうちに数冊の作品を生み出す社会。
きっと、それでも一人の人間が一生では読みきれないほどの作品が生まれるだろう。それに、その中から生活に困らない幸運なベストセラー作家が、幾人かは出てくるだろう。
しかし、それはやはり違う。まさしく「一強他弱」の世界だ。この構図はどこかで見たことがある。いま先進各国で「中間層の没落」がどうのこうの言われているではないか。文化の裾野というものは、切り立った断崖絶壁ばかりの山ではない。富士山のようになだらかで、四方八方に伸びる緩やかな斜面である*4。一握りの強者と圧倒的大多数という展開は、文化の先枯れを予測させる。グローバリゼーションによって危機に瀕する「多様性」に配慮しようという機運が多少なりあらわれはじめている現代にあって、出版文化が環境や経済の後追いすることもなかろう……。
図書館に配慮を求める小説家の言葉に対して、「金銭的な問題で、図書館で読むことしかできない」という人もいるだろう。というか、いた。
確かに個人がすべての本を買うことはできない。そして、すべての本を読むこともできない。しかしそれが読書家の人生というものである。ある本が、誰かにとって運命の本だったとして、図書館の貸し出し自粛によって読書が半年遅れたとしよう。しかし、その誰かは生まれてから十年かそれ以上は「待った」のだ。その本が書かれるまで。なら半年くらい、なんだ。
個人的には、今回の「図書館貸し出し自粛のお願い」は、出版不況という永続的トレンドに対し、なんらの直接的経済的解決の役に立たないだろうと思う。ベストセラー新刊書を図書館で予約してまで読もうというような人のほとんどは、本なんか買わない。とはいえ、小説家に対し異を唱えるのも違うと思う。なかには小説を書くことしかできない人もいるだろう。しかし多くの人は如才なく労働社会に順応し、他の労働者と職を巡って競合するようになる。それでどうなるかといえば、耕作放棄地になった「小説」という文化的フィールドと、労働市場の激化ではないだろうか?*5 いままでの「ゆとりがあった社会」は、小説家という、腹の足しにもならない生産性があるんだかどうなんだかわからない変な存在を抱え込むことができた。そしていま、「情勢が変わってそれができなくなりつつあり、大変に苦しい」と、その小説家(の一部)が主張しはじめている。
小説家には、犠牲を払ってまで本を書く義務はない。生活が苦しくても書く人はいるだろう。それはその人の情熱と決断のゆえであって、誰かに義理立てしての問題ではない。少なくとも、読者に対する義務は、まったくない。創作者が鑑賞者に対して優越性はないのと同じく、鑑賞者もまた創作者に対して優越性はない。
図書館で読もうが、古本で読もうが、読者は読者である。本を購入した読者は、印税収入をもたらさなかった読者よりは、多少なり作者に報いているといえるが、それはあくまでも読者の心の中で自己満足すべき問題であろう。たとえお金を払っていようとも。ある小説家の作品を大枚1200円で購入したからといって、読者がその小説家に対していくらかでも「貸し」があるなどと考えるのは、まったくの誤りである。*6 *7
小説家は霞を食べて生きているわけではないし、まったく社会から切り離された存在でもない。彼らもまた人間であり、社会を構成する一員であり、そして社会とは人間の営み全体である。小説家が自らの苦境をいうとき、それを他人ごととして考えていると、しっぺ返しを食らうことになる。「小説なんていいよ、他に娯楽はある」などと言っているうちに、他の娯楽も歯が抜けるように消えていく。あとに残るのはゼロからやり直しになった荒野だ。2004年の鉄人28号を作りたくても、1963年の鉄人28号しか作れない社会だ(あるいはそれすらも作れない)。
図書館でいち早く新刊書を読む権利を主張する読者がいるとして、その権利はもちろん自明のものではない。今までの出版文化は「幸運」に支えられてきた。であるがゆえに、その状態を「当然」のようにさえ思ってしまう。幸福に慣れると、不満が生まれさえする。しかしそれは結局「社会のゆとり」があったゆえの「幸運」なのである。そもそもいったい我々は出版文化に対して、それを享受するにあたり今の今までどんな貢献をしてきたのか? 言論と出版の自由のために血を流したことような経験を、ほとんどの人は持っていないだろう。ならせめて、図書館でもっと本を読みたいというのであれば、図書館にさらに税金が投入されることを是とするか? たとえば、貸し出し件数に応じて創作者にある程度の料金が届くようにするシステム設計と、その維持管理費、なにより創作者への支払いのために、図書館の予算を増やすことを? もしくは、正職員としての司書が減らされ、パートタイムの職員が増えている「図書館」という、市民の知的生活に貢献する文化施設の苦境に連帯し、その労に報いるために?
「当然」なことなどない。現代は、独裁的な権力者による検閲や焚書を過去のものとし*8、数千年の人類の文化史を振り返って、おそらく絶対量としても割合としてもかつてないほど多くの人が読み書きの能力を持っている時代になっている。まだ不十分だが、進歩はしている。
人類の先祖が何世代にも渡る努力のすえ、ようやく獲得した「幸運」である。
幸運はするりと逃げる。
それを追いかけようとしたとき、我々の前に何者かが立ちはだかる。ヨーロッパで百余年、日本が数十年かそこらのあいだ享受してきた「幸運」のつけを払えといってくる。出版文化を当然のものと考え、それが生得権であり、「失われる」ということなど考えたこともない我々に。
まるで他人ごとのように感じられるかもしれないが、そして、まるで他人ごとのような意見も目にするのだが、「リスク」を負っているのは小説家ではない。というより、その「リスク」は小説家、出版社、印刷会社などといった「特定の職業集団だけのリスク」ではない。
それは、文化そのものに対する――すなわち社会に対する――リスクである。
この資本主義社会において、奇跡的に噛み合ってきた出版文化という歯車が齟齬をきたし、その歯車を管理するものが、もうこれはダメだ、と職分を放棄しかねない状況にあって、ようやく自分たちが失おうとしているものに気づく。
(いや、まだ気づいていない)
ビジネス、カルチャー、レジャーがオーバーラップするとき、創造的なエネルギーが通りや商店や家に漂う。多様な条件の下で、社会は経験を積んでより豊かになり、文明の展開が続く。
リチャード・バートレット*9
あわせて読ませたい:
ハイクログ 2011-02-26
http://d.hatena.ne.jp/ISLECAPE/20110226/h1
*1:青木久恵訳、1990年11月15日発行、395頁〜396頁
*2:記事は消える可能性がある。読売の記事についたブックマーク → http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110225-OYT1T00650.htm
*3:本当に二冊目は出るのか?
*4:いちおう富士登山くらいはしたことがあるので言うけれども、あくまでもののたとえであって、富士山にも危ないところはある
*5:本を買うゆとりを持てなくなった読書習慣を持つ中間層が、結果的に中間層の作家をもろとも引きずりおろして、そしたら社会の最底辺で自分が失業した、というようなことも起きるかもしれない……
*6:広く考えれば、小説家は経済人とも対等である。小説家は経済人ほどには経済社会に活力をもたらさない。出版市場の経済規模など、たかがしれている。しかし社会は経済だけ動いているわけではない。経済は、いったい小説にどんな活力をもたらしたか?
*7:経済システムに組み込み、多くの中間作家を生み出した?(しくじりつつあるが)その見返りが、たぶん今の出版市場の規模だろう……
*8:まだそう言い切れないけれども