そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

「メディア」であるということ

この一か月、複数の用事で忙しくしていたけれども、ひとまずかたがついた。結果はどれも残念としかいいようがない感じに終わったが、まあ、いろいろあったのでしょうがない。最低限の義理は果たした(=単に「投げ出してない」という程度の意味)ということで自己満足はしている。4月1日には『もし高校野球の女子マネ以下略』をおちょくったエイプリルフールネタでもやろうかと思っていたのだけれども、それはいずれまた。

地震の直後、「これがソーシャルメディアの試金石になるだろう」云々というようなことをTwitterで書いておきながら、自分では(おおかた情報過多になるだろう)と無責任にもそれきり離れていた。風の噂によると評価を上げた人もいれば、評判を落とした人もいるようで、いろいろだなあと思う。僕についていえば、わりといつもどおりに過ごしている。いくつかの周辺機器が壊れたくらいだ。終わらなかったものは、いろいろどうにか続く。

地震原子力の専門家でもなんでもない僕のこのアカウントが、こうした事柄について言及することはこの先もないし、(特に被害を受けなかったものを対象にした)こうした状況での心構えだのなんだのはすでに多くの人が書いているので、それについても多言を要さないだろう(じつは書いてはいたのだが、もういいよね)。また、希望を語って誰かを勇気づけるとかいう柄でもなく。

というわけで、いままで「個人がメディアとなること」については多少なり書いてきたので、その点についてのみ。いまは「一方的な情報の伝達者」であろうとすることより、「双方向的なコミュニケーション」が求められている状況であるように思う。家族や友人や恋人にするように、ディスプレイの向こうにいる人の心にそれぞれ寄り添う使い方、とでもいうようなものがある気がする。それはマスメディアには難しいことであり、しかしソーシャルメディア――というかメディアとなった個々人――すなわちわれわれ――にこそ可能なことであろう、と。