そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

時として突きつけられる不条理を「不条理」と感じるのは独善かもしれない(改題)

前回、劇場版SPの簡易レビューを投稿した際に、最後のほうで話がずれ始めたその続き。

「こちらは銀河超空間土木建設課のプロステトニック・ヴォゴン・ジェルツです」声は続けた。「すでにお気づきと思いますが、銀河外縁部開発計画に基づき、この星系を通る超空間高速道路の建造が不可欠となりました。まことに遺憾ながら、地球は取り壊し予定惑星のひとつになっております。工事は地球時間にして二分足らずで完了の予定です。以上です」
拡声器は黙りこんだ。
理解できないままに、空を見あげる地球人に恐怖がのしかかってきた。集まった群衆のあいだを恐怖が徐々に移動していくさまは、鉄粉を撒いた紙の下で磁石を動かしているようだった。(略)
それを見てとって、ヴォゴン人はまた拡声器のスイッチを入れた。
「いまごろ大騒ぎしてなんになる。設計図も破壊命令も、最寄りの土木建設課出張所に貼り出してあっただろう。アルファ・ケンタウリの出張所に地球年にして五十年も前から出てたんだから、正式に不服申立てをする時間はいくらでもあったはずだ。いまごろ文句をいうのはいくらなんでも遅すぎる」
(略)
どうやらどこかの誰かが無線送信機に張りつき、周波数を割り出してヴォゴン船にメッセージを返信しはじめたようだ。たぶん地球の命乞いをしたのだろう、なんと言ったのかはわからないが、それに対する返答だけは聞こえてきた。拡声器がいきなり息を吹き返したのだ。声はいらだっていた。
「ばかな、アルファ・ケンタウリに行ったことがないだと? まったく何を言い出すやら、たった四光年しか離れていないではないか。気の毒だが、自分の住む宙域の問題には気をつけておくべきだったな」

Wikileaksの活動が、多くのアメリカ人に「安全保障上の脅威」とかなんとか考えられ、「テロ」として扱うよう求める議員が出てきたり、Wikileaksへのサイバー攻撃が行われたり。新しいタイプの情報戦争・心理戦争がすでに始まっている。

ゼロ年代を象徴する出来事といえるアルカイダの2001年同時多発テロによって、国際社会にほとんど顧みられることのなかった「中東」に目が向いた(それで事態がよくなったかといえば、残念ながらまったくそうではなかった)。そして10年代になって本格的に動き始めた(設立準備はだいぶ前から)Wikileaksが、顧みようにも隠蔽されていた情報を暴露し、「政策決定を担う一部の人たち」が何をしてきたのかを(ごく一部ではあるが)明らかにした。

オサマ・ビン・ラディンジュリアン・アサンジが単なるイコンにすぎなくても、彼らを象徴として戴くものたちの行為によって国際情勢は十分かき乱されている。彼らは本質的にトリックスターであり*2、その人格や動機について瑕疵を探したり、「彼らは駒にすぎず、裏ではアメリカ政府の陰謀が〜」などというようなことを考えるのには、それほど意味がない。


こうした目に見えない戦いは、日々の生活に追いたてられる一般市民にとってまるで遠い世界の出来事のようにも思える。しかし、秘密にされていた情報が暴露され「調べようと思えば調べられる情報」となっていくなか、有権者が遠い地で起きている悲劇について「そんなことは知らなかった。政治家が勝手にしたことだ」などというのは通用しない。政治家には政策決定についての責任が当然あるが、その政治家を選んだのは有権者であり、「政治家が悪い」といって切り捨てるのは有権者の責任放棄だ。それではまるで政治家が「秘書が勝手に」と言うのとどれほど違うのか。そもそも「民主国家」の理念を世界に広げようとかなんとか言う国家の有権者がそれでは、民主国家の理想もまるで説得力がない。

日本人はおおむね平和な社会で暮らしているが、一方で、その平和な社会の政治が始めた戦争によって生命の危機にあるような人たちがいる。戦争を推進した日本が攻撃されないのは、ただ単純に相手にその能力がないからにすぎないだろう。つまり、日本よりはアメリカにダメージを与えるほうがよほど有効だから。そうした意図を持つごく少数の人がいたとしても、日本はとりあえず捨て置かれ、アメリカが優先される。

しかし、もし憎しみの念で人が殺せるなら日本人だって枕を高くしてはいられない。爆撃で家族を失った人が、その絶望でもって誰かに復讐をしようと思ったとき、その対象はアメリカ大統領やアメリカ軍人や、あるいはアメリカ市民になるのかもしれないが、しかし、それが僕であっても不思議ではない。僕は2005年の衆議院選挙において、イラク戦争に支持を表明した小泉純一郎首相と自由民主党には一票を投じなかったし(あのときの争点は郵政問題だったが)、その後も折にふれて「あの外交政策には問題があった」というふうに言及しているが、といって中東の人々のため、政府を転覆せんと命がけで戦ったわけではない*3(いや、もしかしたら政府を転覆させるために命がけで戦っていたとしても、それを実現できない無能のゆえに断罪されることだってあるかもしれない)。「お前はあの政府を放置したな」などと言われたら、いったいどう命乞いをしたものか? ヴォゴン人の「知らなかったですむか」というような不条理な理屈も、暴力という裏付けがあるなら受け入れざるを得ないだろう。イラクに行って「日本人」として捕まれば、間違いなく危険である*4

ところで、戦争を肯定した国があり、その国民が投票行動なども加味されることなく責められた場合、それははたして本当に「不条理」だろうか。生命のリスクもなく日々のんきに暮らして、もし仮に死後の世界があればそれは閻魔大王に怒鳴りつけられる罪ではないのか。我々に与えられた選択肢は「戦争に反対するため政府と戦って死ぬ」か、さもなくば「自らが所属する国の引き起こした戦争によって犠牲になってひどい目にあった人の復讐によって殺される」か、それとも死ぬのが嫌なら「自分が殺されないよう政府と一体となって徹底的に戦争を推進し、禍根を残さないよう『自分たち』以外を皆殺しにする」か――くらいしかないのかもしれないのではないか? そして、実は日々その決断を迫られていることに気づかないでいるのではないか? その不作為が「『自分たち』以外を皆殺しにする」方針でもって動いている事態を見逃す行為になっているのではないか?


アメリカや日本を憎む人たちから命を狙われたと知って、庇護を求めてひきこもるのはもっとも簡単である。国家はその代償として、いくばくかの自由を差し出せと言う。国民総背番号制度を受け入れ、随時の所持品検査や指紋の記録を受け入れ、監視カメラによって行動を記録することを受け入れ、そのついでに、歌を歌うときは大きく声を張り上げ、そして旗に深々と頭を下げるとなおよい――そうすれば安全な社会の維持にかかるコストも低くなる、と。そこにはなぜ「安全」が脅かされるのかという根本的な視点がない。かたや飢え貧しく、かたや享楽的なまでに豊かな生活。この世界において、ある一部の人だけが「安全」であるということこそが本当の意味での「不条理」なのではないか、というような疑問を抱く知性を蔑ろにしている。

暴力的なテロは昔からもちろんあったが、あの象徴的な同時多発テロによって国際社会が逆上気味に変わったように、Wikileaksのようないわゆる「情報テロ」もおそらく今後の世界を変える。それは「テロリスト」の「功績」というより、「テロリスト」を口実に使う人たちの「思う壺」かもしれない。暴力を避けるためという名目で「行動の自由」に制約が課されることになったように*5、「情報の自由」に制約が課されるようになったとして、情報の自由の制約が知的自由の制限や精神的自由の制限につながり、そしてその先どうなるかは、これから。

この件とは無関係に進んでいる表現規制問題も究極的に目指す先は同じ。ある種の「安全」のため「自由」に犠牲を強いることは別のリスクを生じさせる。自由を代償に得た制約つきの安全が別のところで牙を向くことは大いにありうるし、そうして沈黙を強いられることになった集団がいったいどういう行動をとるようになるのか(あるいはとらないようになるのか)――それはすでに経験済みだ。





※あわせて読ませたい

日本人に生まれるという特権(という幻想)
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20090226/p1

*1:ダグラス・アダムス・著、安原和見・訳、二〇〇五年九月二十日初版発行、47頁〜49頁

*2:海保護衛艦に中国漁船が衝突したという絵以上の流出にあまり意義が見いだせないのは、トリックスターとしてのその行為によって社会に大した動揺がもたらされないからというふうに思える。

*3:そのあと自民党は勝手にコケたが、それもアフガニスタンイラクのためではなかった。

*4:イラク人質事件について「自己責任論」をいう人に対して僕は批判的であったが、あくまでも当事者の生命のリスクについてのみ言うなら、もちろん行かないほうが短期的な身の安全は図れる。

*5:もっとも、「行動の自由」などというものがはなから存在していたかどうかは話は別だが。