そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

SP野望篇を見て「革命家になるのはやめて詩人でいよう」と思った

「ねえ、なに。あれは超能力者なの?」

80分かそこらの上映を終え、劇場は完全入替、と退場を促す声に追いやられ通路に出る観客のなかで、60代くらいの夫婦と思しき二人のうち、男性が戸惑ったように連れの女性に訊いていた。

映画「SP」公式サイト
http://sp-movie.com/index.html

11月9日、都内のシネマコンプレックス岡田准一主演の映画『SP 野望篇』を鑑賞した。本作品は2007年から2008年にかけてフジテレビ系で放映されたドラマ『SP 警視庁警備部警護課第四係』の劇場版作品で、消化不良に終わったドラマ版を完結させる二部作『SP THE MOTION PICTURE』のうちの(実質的)前編になっている。

このようにエントリを書いておきながらなんだが、ここでこの映画をおすすめはしない。(というとやや語弊があるので補足するが)ドラマを見ておらず、劇場で見るべきか迷うような人は、主演の岡田准一ノースタントアクションがどうしても見たいという強い動機でもないかぎり、冒頭の男性のような感想しか出てこないと思う。アクションそのものは頑張っていて、痛快娯楽作みたいなCMも流れているようだが、じゃあカタルシスを得られるかというと、陰鬱で中途半端な終わり方をするストーリーの問題もあり微妙だろう。スティーブン・スピルバーグ製作総指揮、マイケル・ベイ監督作品の宇宙人侵略パニック大作映画を見に行ったらオモチャの宣伝映画だったみたいな肩透かしは「大作映画」にはよくあるので、なにも無理して大枚をはたかなくてもいいとも思わなくはない。しかし、本放送時からドラマを毎週欠かさずに見て、続きを気にしていた人は僕がなにを言おうと観に行くだろう(なにしろ僕自身、前売りを買って見に行ったくらいだ)。だから、わざわざおすすめはしない。そういうような理由である。だいたいドラマ版からして回を追うごとに話が荒唐無稽になっていくので(とくに井上)、「いいぞもっとやれ」と思うような視聴者でなければ離れていったはず。ましてこの映画から見るのは……

以下ネタバレ

で、ネタバレを含めて本作のあらすじをごく簡単に言うと、ドラマ版で引き起こされた数々の事件の首謀者と、その意図が姿をあらわす一方、その首謀者が、それらの事件を現場で阻んだスーパー警護官・井上薫岡田准一)にあえて意趣返しをしようという致命的な戦略ミスを犯し、次回の『革命篇』では、そういう脇の甘さがあだになって破滅するのであろう、ということを予感させるようなストーリーになっている。

あらかじめ予期していたことだが、話が中途半端なところで終わる。位置づけとしては、"EPISODE IV"で終わったドラマ版に引き続く『野望篇』を"EPISODE V"、『革命篇』を"FINAL EPISODE"と銘打っているものの、実質を考えると『野望篇』を"FINAL EPISODE PART1"、『革命篇』は"PART2"としたほうがわかりやすいと思う。『野望篇』を観ずに『革命篇』を鑑賞した場合、ドラマ版を観ずに『野望篇』を鑑賞した人以上に置いてけぼりを食うであろう(ということは疑いないので、『革命篇』上映時にこのエントリを読む人向けに書いておく)。作りもほとんどドラマ版同様で、スタッフロールBGMに新曲を用意せず、テーマ曲から(ドラマエンディングに使われたV6の)"way of life"で終わるところからも、1年か2年後のフジテレビ系列での「SP一挙放映」の際に、旧ドラマと劇場版で差異を目立たせないような作りにしているのではないか、と思った*1

ごめんなさい、もうしません、ゆるしてください

全体的な印象はどうかというと、とにかく「井上無双」である。冒頭の男性の戸惑いもよくわかる。ドラマ本編のころから人間離れした能力を見せていた井上だが、映画で完全に非・人間(イニューマン)になった。幼少時のトラウマかなにかで脳機能がやたら発達し、すぐれた危機察知能力や瞬間視能力を持つようになった一方で、感覚が鋭敏になりすぎて日常生活に支障をきたしているというような設定は、「ふつう」の映画を求める人からは荒唐無稽に思えるだろうが、しかし遺伝子操作された蜘蛛に噛まれたら手首から蜘蛛の糸を出せるようになった*2よりはよほど現実的で好感が持てると思う。まあ、あくまで、僕は、だが。異常に観察力が鋭くてやや社会不適合気味というキャラクター造形はシャーロック・ホームズに通じるところもあるし、僕としては本作をアメリカンコミック的なスーパーヒーローものとして鑑賞しているので、「超人ぶり」は気にならなかった。

井上の弱みは、(日本の警察官の特性上)相手が拳銃で狙ってこないかぎり拳銃を撃てないことくらい。どちらかといえば僕はテロリスト側の視点で見ていたのだが*3、火をつけたダイナマイトを投げても警棒で弾き返されるし*4、ボウガンで狙っても躊躇なく向かってくるし、数百メートル先からライフルで狙っても気づかれて挑発してくる。そりゃテロリストだって怖くなって逃げるよ。映画『ターミネーター』でアーノルド・シュワルツェネッガー演じるところのT-1000T-800を相手にするのと同じ気分であろう。*5

僕はあのテロリストほど訓練してないので、井上の同僚の真木よう子相手でも瞬殺されてしまうだろう。なので、井上たちにボコボコにされるテロリストを見ながら身をすくめつつ「国家転覆とか不穏なことは考えず、おとなしく詩を書いていよう」と固く心に誓った次第だ(ジェイソン・ボーン三部作を見た時もそう思ったが*6)。まあ、本職のSPがこの映画を見たらちょっと脱力するかもしれないけど。

スーパーヒーローの「孤独」

しかしそこで、娯楽作品としての『SP』について問題となってくるのが、この世界におけるスーパーヴィラン*7の不在である。多少なり腕に覚えのあるはずのテロリストたちは個性付けがほとんどまったくといっていいほどなされておらず、ただの雑魚扱い。相手役には力不足だ。

では、そのテロリストたちを操る黒幕はというと、これまた忘れさられた古い漫画のキャラクターをなぞり描きしたトレーシングペーパーのように薄っぺらい。たぶん僕の「アメコミの一種として観る」という鑑賞の仕方が間違っているのだとは思うが、香川照之演じる「典型的ポピュリスト」*8の与党幹事長や、その周囲にいる若手エリートなど、セリフをひとこと発するたびに退場フラグをばらまいているというふうにしか感じられなかった。もし僕が彼らのうちの誰かだったとして、絶対にあんなセリフは言わない(頭に兆すことはあるかもしれないが、「こんな小物が言うようなフレーズを口にしたら一生の恥だ」と考えて押し黙るだろう)。というか、香川幹事長は「(日の丸を示し)ニッポン国とぉ(観衆に手を伸ばし)みぃなさまがたのためにぃ、粉骨・砕身いたしますっ!」の他には、遊説中のテープレコーダー式ギャグシーン以外に見せ場がないです。ホント。

井上はこの『野望篇』で鬼神になったが、身体そのものは人間なので、あとはもう破滅するしかない。山本圭首相も、香川幹事長も、黄昏を迎える神の道連れにはいささか貫禄不足だが、井上が彼らをどう巻き添えにするかは楽しみでもあり、個人的には3月公開の『革命篇』を期待半分、(風呂敷を畳みきれないのではないかと)不安半分で待つつもりである。楽しみ方が間違ってますか。そうですか。

暴力革命の時代遅れ

いま、日本では「中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突」が撮影された映像の「政府が意図せぬ」流出でやけにきな臭い。「世界は簡単に白黒つけられるほど単純ではない」というような冷笑が消え去り、ただひたすら日本の正しさを言い募る露骨なプロパガンダであふれている時分、このような主題の映画が公開されているということにはいささかの皮肉がある。

もはや、理想主義の弁護士と風来坊の医者が、超大国の後ろ盾を持つ国家権力をひっくり返せる時代ではない。監視カメラ網の整備や情報処理技術の向上など、技術の進歩が暴力革命を難しくしている。世の権力が資本論の革命論に過剰な恐怖心を抱き、過剰武装しているようなものだ。結果、社会へのラディカルな抵抗は散発的なテロや、サイバー攻撃、そして情報のリークていどが関の山になっている。というわけで、暴力によって社会制度を覆そうとする革命を描く彼ら悪役の行為は、やはり時代遅れで漫画っぽく感じてしまうなと考える次第だ。

革命が企図するものは、本質的には人の心・思想・行動に影響を与えることである。21世紀の革命のトレンドはウィキリークスWikileaks)であるとか、警視庁公安部のテロ関連文書流出、海保ビデオ流出のようなものにシフトしていくだろう*9。『SP劇場版』の中で、「喉元過ぎれば熱さを忘れる現実に目を向けない国民を目覚めさせるために、革命が必要だ」とかいうようなことを黒幕側の人物が言うのだが、正直時代を二十周回遅れしている感は否めない*10。たぶん、あまりに遅れすぎて自分がトップランナーだと思ったりすると、そんなことを言い出すんではないだろうか(ところでいちおう書いておくと、「キャラクターが薄っぺらい」というのはともかく、「暴力革命が時代遅れ」というのは脚本批判ではない。それは脚本家のせいではなく、そんな時代遅れな革命に酔っている登場キャラクターのせいである)。

「革命をしたがる性急な人たち」は忘れているのか、あえて無視しているのか。それとも面倒くさがっているのか。

システムを変えるときは、一握りの少数で変えても意味がない。多数の同意がない革命は、別の革命によって覆されることを宿命づけられている。自分の理想を押し付けることに成功しても、あとはその理想を自分で後生大事に磨き続ける一生が待っている。なにしろ、誰も磨いてくれないかもしれないから。

そんなことをするよりは、誰かひとりでもに影響を与えることを念じながら詩でも書くほうがいいのではないかと思うのである。誰かが絵を添えてくれるかもしれないし、曲にのせてくれるかもしれないし、歌ってくれるかもしれないし、それに、続きを書いてくれるかもしれない。そうやってゆっくりと社会は変わっていく。

僕はそうしようと思う。


そういうわけだから、みんなで長生きしよう。



(ポエム)



* * *



ところで映画上映前に6本の予告編*11を見させられたが、予告編の実写版ヤマトの影響で(木村拓哉エルシャダイイーノックで、ルシフェル福山雅治だったらうざいだろうなあ)とか思考が脇道にそれてしまったので、この6本で正しかったかちょっと記憶があいまいである。

ソーシャルネットワーク』が面白そうだとは思いました。


おいおい、なんのエントリだよ。


*1:ドラマ版放送終了後ののちゴールデンタイムで放映された2時間ドラマ版は見ていないので、それとは比較できない。

*2:ついでにいうと、もともとの設定では「放射能を浴びた蜘蛛にかまれたら手首から蜘蛛の糸」であった。

*3:というか、僕はたいがい犯罪者側の視点で物語を鑑賞する。どうすれば主役を出し抜けるか、というふうな。しかしまあそれで得た教訓といえば、「警察が万能でないとして、自分も当然に万能でない」。

*4:あげく拾って投げ返してくる

*5:まちがい。T-1000は『ターミネーター2』の流体金属型。また、T-800は警官と対峙しなかったかも?

*6:一方で『エネミー・オブ・アメリカ』を見たときは「もしかしたらなんとかなるかもしんない」とか思ったりしたのだが、それはさておき。

*7:常人にない超能力を持つスーパーヒーローに引けを取らない悪役。バットマンにとってのジョーカーや、スパイダーマンにとってのヴェノム。言及先のWikipedia英語版は、シャーロック・ホームズにおけるモリアーティ教授を類例としてあげているが、個人的には、モリアーティはそれには当たらないと思う。

*8:劇中人物の評

*9:後者について僕は批判的である。それについてここではいちいち論じないが、記録として言及だけしておく。

*10:あと、それは劇場版パトレイバー2でもう言われている、というツッコミもあるよね。

*11:ソーシャルネットワーク』(Facebookの話)、『僕と妻の1778の物語』(眉村卓夫妻の話)、『ゴースト』(『ニューヨークの幻』のリメイク)、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(木村拓哉)、『ガンツ』(漫画原作)、『ノルウェイの森』(村上春樹