二十八にして目利きにならねばならぬ
車寅次郎がうらやましいと思うこともある。
ものが必要以上に多いと、始末するのに本当に困ります。片付けたいと思っても、どこから手をつけてよいのか方針も立たなくなってしまいます。
(中略)
余分なものを持たないということは、自分の生きる姿勢がきまらないことには実行できません。それはものが多いか少ないかではなくて、要るか要らないかなのですから。*1
暮し上手の家事ノート (知的生きかた文庫) 町田貞子著
それはそうなんですがね。
僕のように四半世紀かそこら生きた程度の場合、生きる姿勢もなにもないのではないか、と思わなくもない。これからまだ変わっていく可能性もある。まあ、それでも近ごろは自分好みの本を手近に置き、図書館や古書店で簡単に読める本は処分するようにしている。この空いたスペースぶんはトランスフォーマーを(違)
本に限らず、子どものころに買ったものを見るにつけ、「こんなもん買って、他にお金の使いようがあったのになあ」などということを思ったりする。でも、そんな「無駄遣い経験」だって、僕の人格形成にいくばくかの影響を与えているのだろう。そもそも子どもの無駄遣いだから、高額なものでもせいぜい数万円単位、生活が破綻するような額ではない。これも人生勉強の一種か。
ここ数年、出費録をつけるようになって「無駄遣い」が可視化され、あとあと後悔する買い物が減った。衝動買いもしなくなった*2。誰しもこうやっていちいち試行錯誤しなければならないんだよなあ、とそれら品々のことを思う。僕のこの内省を次世代に引き継ぐことはできない。その消費を「無駄」と思わずに楽しんだ僕の思い出も、もう無駄遣いはするまいという僕の決意も、あくまで僕のもの。
自分に必要なものを峻別する眼を養った。そのようにして、僕は(他の誰でもない)僕になるのだ。
このご時世に財布の紐を締めてる話というのはちょっとアレだけど。