そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

努力とエネルギー

質量はエネルギーである……といわれる。正直いって、どういうことなのかさっぱりわからないのだが、要するにこれらは本質が同じものらしい。ものを燃やしたときにエネルギーが発生する、というところから考えると、「もの(質量)はエネルギーの可能性を秘めている」とでも言うのがいいだろうか。人間の身体だってエネルギーの塊なわけで、むしろ、エネルギーが安定した状態が質量、とか?

そういえば、ドラえもんの胃袋は何でもエネルギーにしてしまうとかいう話だ。現在の文明は、ごく限られた物質しかエネルギーとして利用できていない。石炭とか石油とか。状態不安定な放射性物質は、質量にしては珍しくエネルギーに還元しやすいものらしいが、危なすぎ。髪の毛一本や、切った爪のかけらをまるごと純粋なエネルギーに変換できたら、人生楽なんだけど。(こうなるともう魔法みたいな話になってしまうが)。

放射性物質のことはともかく、石油や石炭は長い年月をかけてこしらえられた物質である(利用者の見方からすれば)。人類はその「長い年月=時間」を一瞬のうちに消費している。森林を伐採することも、ミツバチから蜂蜜をかすめとるのも、ある意味では自然から「時間を奪っている」ことと同義ではないか。ここでいう「時間」は「努力」と言い換えてもいい。人間は他人の努力をかすめとる生き物というわけだ。

わりあい最近になって人間が発明した経済システムだって、他人の時間(努力)を消費するためのものだ。自分ではできない(あるいはしたくない)ことを、お金を使って誰かにやらせる。お金がたまるというのは、ある意味では我慢の積みかさねだ。じゃあ皆がみな我慢に我慢を重ねれば人類ひとしく大金持ちかと言われれば、そりゃそんなことはないけど。

架空請求とか、マルチ商法とか、老人がお金を失っているという話を聞いて、なんとなく思う。彼らが失ったなけなしの財産に、どれほど彼らの費やした人生が込められているのだろうか、と。森羅万象にとってはあまりにも取るに足らないもの。しかし、ひとりの人間にはそれがあまりにも大きすぎる。他人を搾取するという人の性によって、当たり前のようにかすめとられたもの。どれほどの時間、どれほどの努力が。