そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

分断されている?

1/10 派遣村にいく労働者を甘えと発言する政治家がなぜいるか - きょうも歩く
http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/01/post-df38.html

そりゃあ、有権者の多くがそう思ってるからじゃないのかなあ、と僕は思うのだが、このエントリを読みすすめると、努力の人である議員が、努力万能主義に毒されて僻んでいるのではないか、という視点。そんなにあさはかなのだろうか。

派遣村派遣労働者たちが結果として公費で救済されていることをこうした政治家たちの本音は批判しているが、政治家の事務所に就職の斡旋、紹介状の執筆、推薦を依頼してくる有権者たちについて、どう考えを整理しているのだろうと思ったりもする。

それは確かに。たぶん議員はそういう人を見下しつつも、将来の一票(またはそれ以上)と思って我慢しているんじゃないかと思うけど。

そのあと、このエントリはいきなりアニメ『MAJOR』を取りあげ、

選手みんなが上等じゃないか、退部してやる、と騒ぎ出したところ、ある選手が「おお、みんなやめろやめろ、ありがたいじゃないか、ライバルが減るから」と言って、騒ぎが収まってしまう。

はぁ。

見事、分断されている。みんなが退部すれば野球部は崩壊し、監督は、野球の指導能力を買われて、他の能力に目を瞑っても学校に雇われているだけだから、野球部が崩壊されれば、その監督は学校から放逐されるはずだ。

原作もアニメもほとんど未見なのだが、たぶん「やめろやめろ」と言ったのは主人公だろう。森久保祥太郎の声が聞こえてくるようだ。

確かに、もし派遣労働者が団結して一斉ストライキに入れば、企業は相当困るだろう(そして甘言を弄してスト破りを誘発させたりするのだろうが)。ただ、それはやっぱり夢想なんだろうなあと思う。

それで思い出すのは;

スペルシンガー (ハヤカワ文庫FT―スペルシンガー・サーガ)
救世の使者 (ハヤカワ文庫FT―スペルシンガー・サーガ)(分冊)

魔法使いのカメ・クロサハンプによって、動物たちが暮らす世界に召喚された法学生ジョン・トムは、楽器を使って魔法を唱えることができる「スペルシンガー」として世界の危機に立ち向かうことになる。

大都市ポラストリンドゥへの道中、マルキストのドラゴン・ファラミーザーに食べられそうになったジョン・トムは機転をきかせ、自分たちが全体主義的資本主義者の侵略に抵抗しようとする革命主義者であると主張。革命的コミューン・ポラストリンドゥの指導者……じゃなかった中心的労働者に危機を伝えに行く最中なのだとドラゴンに信じ込ませた。

巨大な身体を持ち、空を飛び、そして火を吹く強力な仲間を得て、やすやすとポラリスランドゥに到着した一行だったが、ジョン・トムが席をはずしているうちに、ファラミーザーは、この都市がどうしようもないくらい反革命的資本主義に染まっていることに気付き、怒りに我を忘れて暴れ出す――

「嘘、嘘、嘘だ! おまえはおれに嘘をついた」ばかでかい爪の生えた足が都市のほうを示した。「これはコミューンなんかじゃない、コミューンのかけらもない資本主義的悪がはびこるけがらわしい巣窟だ。改善される必要などない、手のほどこしようがないからだ。焼いて清める必要があるんだ!」
(中略)
「そんなことをしたらこの都市の労働者はどうなる? そんな権利が君にあるのか?」
(中略)
「自分たちを搾取しているシステムを積極的に容認していて、なにが労働者だ」
「抑圧された労働者にどれだけの権利がある、同志? 自分が二十倍も大きくて、火と破壊を与えることができれば、改革を口にするのは簡単さ。まずしい労働者の多くが、家族をかかえているんだぞ。きみにはそういう責任はないだろう」
「それはないが……」
「だったら、家族を守るために抑圧に耐えているものたちを非難すべきじゃないよ。きみは家族を犠牲にしろと要求しているんだぜ。さらに、かれらはきみほど教養があるわけじゃない。きみは無教育な労働者たちから洗練された革命を期待している。まず彼らを教育しようとすべきじゃないのか?(後略)」

(『スペルシンガー』P488-489,宇佐川晶子・訳/(中略)、(後略)は筆者) 

資本の視点からすると、教育化されていない労働者がどれほどいたとしても、この先の市場戦争に生き残るには不十分である。戦力として弱い。とはいえ、教育を受けた労働者は自身の権利にも敏感だ。最小のコストで、最大限の利益を得たい資本のジレンマがそこにある。

少数精鋭の指導的労働者と、圧倒的多数のどうでもいい労働者、という構造状態から企業が逃れられないとすれば、彼らにとって、どうでもいい労働者が教育されているのは困る。名目的大卒といっても、あるていどの教育を受けていれば、それだけ余計な知識を得ている可能性は高い……。その職能において教育化されていれば十分で、労働環境などに目を向けないでいてくれれば望ましい、と。だからこそ、資本の本音としては階級差が欲しい、というところか。階級移動が可能な社会では、他人の芝を青く見てしまう。しかし犬は人間を羨んだりはしない*1

企業は人間より長命なので、「製造業派遣」というカードを手に、中長期的視点でもって労働者の分断をはかることもできた。それが金融恐慌でつまづき、(二重の意味で)準備もないまま、せっかくの切り札を早々と切ってしまった。まだ結果は出ていないが、僕はこれはかなり拙速だったと思う。結局のところ法人は擬制にすぎず、じっさい中にいるのは、自分を法人と同一視している人間にすぎないので、目前の短期的な障壁――決算や株主を無視できないのだ。

相対する労働者側は実質活動期間50年の人間そのものなので、一刻も早く成果を手にしたがる。しかし、これは明日明後日の解決が見込める問題でもない。100年後200年後にどうなるか、それが自分たちの行動にかかっているということを考えなければならないのだ。

社会は急に変われない。少しずつ歩みをすすめるしかないのである。いま建設業に従事している人に、もう公共工事はやってられないので、明日から小学校の教師になれ、3年たったらES細胞の研究者になれ、などというのは無理だ。しかし、いま建設業に従事している人の子どもが教師になり、その子どもが研究者になるということは可能だろう。その逆もまた。社会は長期的な視点で変えていくしかない。血縁やコネで階級が完全に固定化された(能力継承の不確実な)社会はリスクが高い。マルクス・アウレリウスがよりによってアホな後継を選んだりすることもある。

とりあえず労働者側は一服つけたのだろうか。少なくとも、いままで興味を持たなかった人たちの耳目は引けた。

まだターンエンドじゃない。

*1:ただし、そこにはいくつもの問題がある。人間はどうしても世代交代せざるを得ないのだが、世代交代後の個々のユニットにおいて、先代の能力が保証されないということはありうる(指導的立場の労働者の子が、必ずしも親と同等の能力を有するようになるかはわからない)。また、そもそも人件費をコストなどと考えているうちは、どうしてもだめだ。底辺の労働者が自分の生産物から疎外されるような状況では、消費の拡大など見込めない。社会的優位な立場にある資本が自らを最適化し、新しい価値観を創造するのが本当ではないかとは思う。