ジャイアンの歌に耐える方法
2、3年前になると思うが、放送大学の英語(IV)の講議で興味深いテーマを扱っていたことがあり、何週か見ていた。
テーマは面白いのだが、ひとつ問題があった。
担当講師が番組の中でなぜかバンドを組んで歌うのである。それも、正直いって公共の電波に乗せていいのかどうなのかというような、なんか微妙な歌を。ひどい抱き合わせだと思った。NHK「のど自慢」のことはさておき(もちろん僕は見ない)、U局はたまに素人参加の痛々しい番組をやらかしたりするが、何も放送大学が真似しなくても。
とはいえ、だからといってチャンネルを変えるのもなあ、と思うわけで。そのとき僕がどうやって耐えていたかをこれからお話しようと思う。
講議を中座する斉藤先生(おっと、名前を言ってしまった)!
ミニスタジオみたいな場所で、どこから連れてきたのかいまいちよくわからないメンバーとともに歌い始める斉藤先生(おっと、また名前を言ってしまった)!!
うっ!
なんか、そこはかとない破壊力!!
次の瞬間、僕は隠された能力を発動し、中世ヨーロッパ農民の息子になるのである!!(心が)
――……極貧というほどではないが、決して裕福とはいえない田舎の農場。そこで僕は生まれた。家族総出で働くのは当然である。日常の娯楽などなく退屈で平坦な日常が続く。
そんなある日、村に旅人がやってきた。狭いムラ社会にきたよそものだ。本来ならあまり歓迎はされないところだが、どうやら同じ民族のようでもあるし、とりあえず迎え入れることになる。
そして驚くのである。
旅人のなんという博学ぶり! 彼はいままで考えたことも聞いたこともない面白い話をしてくれる。当然、僕は夢中になって聞き続ける。彼は旅の吟遊詩人であり、ものを知らない田舎者を楽しませる術を万事心得ているのだ。話がひと段落つき、座が静まりかえる。すると詩人は自分の荷物の中から見たこともない奇妙な物体を取り出した。
楽器だ。
そして詩人は歌い出す。神の視座からすれば、その詩人の実力は時代的に見てもまったく大したことのないものだった。だが、メディアが発達していないこの時代の人々に、そのような鑑賞能力があるだろうか? 楽器を見たこともない田舎の子供にとって、詩人の歌が少し調子外れ……というか音痴であろうとも、それはあまりにも衝撃的にすぎる出会いなのだ。
かくて楽しき夜は更けゆく……
次の日の朝、僕は旅立っていく詩人の姿が見えなくなるまで、手をちぎれんばかりに振って見送るのだった……(その村に、次に吟遊詩人が訪れるのは、118年後のことである)。
そしてまた再び退屈な日常が繰り返される。だが、僕の心の中では折に触れて詩人の歌がリフレインされる。その度ごと旋律がどんどん美しくなってゆく。
半世紀が過ぎた。幾多の苦難がありながらも、僕はどうにか生きた。そしてその日がきた。召される時である。苦しい息。家族に見つめられながら、思い出が走馬灯のように蘇る。良い思い出、悪い思い出、そしてなにより、あの忘れ得ぬ時を。
最大限に美化されたあの美しい旋律とともに、もどかしく老いた身体が軽くなる。いまや僕の姿は幼い時のままだ。迎えにきた天使たちが指し示す先には、悲しみとともに別れを告げた人々の姿。
そこに僕は懐かしい姿を認めるのだ。
「……おかあ……さん…………!」
――とまあ、これぐらい妄想していれば歌も終わっていることであろう。調子に乗り過ぎると番組自体が終わっている可能性もあるので注意が必要だ。
要するに赤毛のアンメソッドである。小さいころから退屈な時間やお説教タイムや学校の授業などは、このようにして耐えてきた。もはや何回ぶんの人生を過ごしてきたのか覚えていない。
先輩や上司の下手なカラオケに付きあわされたときなんかにどうですか。
応用力をきかせれば、面白くない小説とか美味しくない料理店とかでも使えるかも!(いいのかそれで)