個人的な体験
図書館とホームレスの問題について、ネット上が騒がしくなっている。図書館を通り越して「社会とホームレス」みたいに話がずれたりもしているが、もちろんそこに問題視されている人たちの意見はあるはずもない。
東京23区内の話である。
数年ほど前のことだった。ある小学校の正門の前にみすぼらしい格好の老人が寝そべっていた。その日はたしか祝日で、生徒はいなかったと思う。なんにせよホームレスとのエンカウントは珍しくもない。僕はそのまま立ち去った。
しばらくして、帰り際に同じところを通りかかった。老人が寝転んだまま何ごとか意味不明なことを叫んでいた。車道をはさんで何人かが遠巻きに彼を見ていた。
「どうかしましたか」僕は声をかけた。
「どうかしたもない。馬鹿にするな」老人は僕を一瞥して答えた。「なんだお前は」
「ただの通りすがりですが」
「俺はな、昔ボクサーだったんだぞ」
「そうですか」
「ボクサーだったんだ」
そう言いながらもぞもぞと動いた。もともとの臭いに加え、アンモニア臭が鼻をついた。その日はずっと晴れていたが、路面が濡れている。それに、さっきから見ていると左半身が動いていない。僕は老人の脳硬塞を疑った。
「大丈夫ですか?」
「なんで」
「身体は動きますか」
「動くよ」右手を振ってみせる。
車が止まった。運送業のワゴンで、30代後半くらいの運転手が降りて、声をかけてきた。
「どうしたの」この運転手には、僕がホームレス狩りか何かに見えたのだろうか。
「ここで倒れていたんです。ひょっとして脳硬塞かなにか――」
「大丈夫だよ、だーいじょうぶなんだ」老人は歌うように言った。ゆっくりと身を起こすようなそぶりを見せる。いま病気に襲われたわけではなく、左半身の不自由さは後遺症のようだった。
「大丈夫だね」運転手はそう言って、そのまま去っていった。
老人は立ち上がると道路ぎわからゆっくりと歩き、壁を背にして僕に向き直った。身長は160半ば。思ったよりは高い。背筋が少し曲がっていることを考えればもっと高かったはずだ。
「俺はな、刑事だったんだ」いきなり何を言い出すんだこの人は。「新宿署の刑事だったんだぞ」
「ボクサーじゃなかったんですか」
「新宿署だ」彼は僕を見上げながら、あくまでも強気そうに言った。「何人も知り合いがいるんだぞ。新宿署の刑事をだれか知ってるか」
「……いえ」ミステリに出てくる新宿署の刑事は知っているが、もちろんそんなことは言わない。「えーと、新宿と言えば、僕は大久保あたりの生まれでして」
なにげなく付け加えた一言だったが、老人は喜色めいた。欠けた前歯を覗かせながら、「大久保?」と繰り返す。
「ええ、新宿区大久保」
「そうか、ほら、これ」そう言って取り出したのは期限の切れた免許証。そこには新宿区大久保とある。「大久保か」
老人は僕の手を取り、「大久保か」と繰り返した。握手をするその手はがっしりとしていて、ボクサーではないだろうが、肉体労働に従事していたことをうかがわせた。
「呑みにいこう」
「はい?」
「呑みにいこう。驕るから」
僕の手を離さず呑みにいこうと繰り返しながら、身体はすでに繁華街のほうに向いている。この豹変ぶりはどうしたことだろうか。
「あのですね、僕は未成年でして」それに山岡士郎でもない。
「なんだ君は、中学生か」
「いちおう大学生ですが」
「大学生は酒を飲めないのか」
「呑めないことはありませんが、まあ呑まないほうがいいでしょうね」じっさい僕は飲酒も喫煙もしないのである。
「そうか」老人は僕の手をもういちど堅く握ると、それでも嬉しそうにうなずき、先ほどまでとはうって変わった様子で歩き去っていった。
胸さえ張っているようだった。
余計なことをしたのかもしれない。
その時、そう思わずにはいられなかった。これは僕の勝手な想像でしかないが、彼は人間なみに扱われたことを喜んだのではないか。最初のかたくなな態度が、彼なりの防御の仕方だったとしたら、僕はうっかりそれを解いてしまったことになる。無防備になった彼を傷つけるような態度や言葉が再び向けられたら、そのダメージの大きさはどうなるだろう。
握手の感触を右手に残しながら、僕は踵を返した。
(最後までつきあうつもりもないのに、いたずらに手を差し伸べるなんて、ずいぶん無責任じゃないか?)
僕の善意は、そう言って僕を非難した。