あの日――
(この儀仗兵、いきなり叫んで彼を撃ったりしないだろうか)
バカバカしいと思われるかもしれないけれども、僕はテレビの前で緊張していた。バラク・オバマが姿を現わしたとき。
彼は、まだ大統領じゃないわけで――たとえほんの一瞬でも、アフリカ系アメリカ人が大統領職につくという「事実」を受け入れがたい誰かが、彼を暗殺するのではないかと。
凄腕の狙撃者でも雇って。
僕はコードの長いヘッドホンをテレビのプラグに差し込み、目一杯伸ばしてシンクの側に引っ掛け、音量を目一杯に上げた。家族はもう寝ている。簡易「手元スピーカー」のできあがり。
洗い物をはじめた。画面から目を逸らした。
――あの日も僕は洗い物をしていた。
「あ」と、テレビを見ていた母が声を上げた。「いま、飛行機がぶつかった、2機目?」
「まさか」僕は答えた。「衝突時の映像でしょ」
「違うって。もう片方のビル」
2機目? 画面のアナウンサーも同じことを言う。 間抜けな報道のチャーター機か?
洗い物の手を止め、テレビに近寄り、その映像を見た。
旅客機だ。
ああ、と思った。
つまり、「神の拳*1」がイスラエルを飛び越えて、資本主義の象徴を砕こうとした、ということなのだ。
たぶんあの、ウサマ・ビン・ラディンとかいう人物の、アル・ナントカいう組織が。
踵をかえし、洗い物を続けた。
僕はわざと音を立てて、食器をこすった。水道を流しっぱなしにさえしたかった(でも、貧乏性なのでそれはできない)。
もし――もし何かあれば、悲嘆のどよめきが起きれば、きっとスポンジがたてる音よりも大きいはずだ。
世界に悪意があることは知らなければならない。でも、その瞬間の目撃者になるのは嫌だった(テレビ局は、「アクシデント」に備えて、数秒遅れの映像を配信しているのだろうか?)。
なにをバカなことを。どれほどの連中が、その威信をかけて彼を守ろうとしていると? 少なくともお前の将来なんかよりよっぽど安全だ。つまんないことを考えてないで、自分の心配をしたほうがいい。賭けてもいいぜ。
と、僕のおしゃべりなダイモーンが言った。
……。
その通りだった。
合衆国第44代大統領が誕生した。
僕はヘッドホンを手に取り、ボリュームを下げ、二ヵ国語音声を切り替えた。
そして、市民の理性に訴えかける、とても地味な演説を聞いた。
cf. http://d.hatena.ne.jp/islecape/20090121/p2#c1232638359
*1:ツザリク