そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

そこにあるもうひとつの世界

「見られたくないなら、そもそもあんなに短いスカートをはかなければ良いのに」

僕からすれば、もう60にもなろうという人が、そんな浅はかなことを言うとは思わなかった。前後の文脈から考えても、若輩にはうかがい知ることのできない定見が込められた言葉とは思えなかった。

もっとも、それは僕に対して同意を求める言葉ではなかったし、僕が口をはさんでも話がややこしくなるだけだ。黙って聞き流した。

もちろん僕は女子中高生の代弁者ではないし、これから述べることが彼女たちの全てだとは思わない。ただ、彼女たちが世に数多いるその他大勢の男性のために短いスカートをはいているわけではないことは明白だと思う。

まず、当然のことだが、短いスカートをはいているからといって、彼女たちの脚を見つめてもいいと考えるべきではない。

誰かが奇矯な行動をしているとき、その人を嘲って遠巻きに眺めるようなことが許されるだろうか。このような場合に採るべき真に最良の方法を僕は知らないが、少なくともその人がなんらかの救助を求めているか、あるいは逆にその人自身が通り魔など明らかに公共の福祉に反する行動を行っていないかぎり、その場に存在しないものと無視するのがもっとも妥当な方法のように思える。

短いスカートの女子中高生はこの類だ。彼女たちにはきれいな脚しか持ち合わせがないのだから、自己顕示欲かなにかの発露としてミニスカートをはいたとしても、それはそれでやむを得ない面がある(ここでは、周囲からの同調圧力に屈して制服のスカートを短くするような娘のことは考えない)。紳士たるもの、彼女たちの弱味につけ込んで自分のささやかな満足を得ようなど恥だと考えねばなるまい。

そうは言ってもきれいな脚に眼が引き寄せられてしまうのは男性の男性たるゆえんか。しかしそう弁明する前に、彼女たちが短いスカートをはきながら、それでも見られたくない人には見られたくないなどと主張することは、ある意味では自然なことだと認識する必要がある。

つまり、彼女たちがやたら短いスカート(またはその脚)に込めたものは、同性か異性かはともかく彼女たちが向けたい人だけへのアピールであって、その他大勢に対するものではない、ということだ。

彼女たちには彼女たちなりの世界がある。その幼稚な世界は不幸なことに現実の世界とも密接に関わっているが、彼女たちはそのことについてあまりよく知らないし、おそらく彼女たちは自分の拒絶によって、自分が望まないもう一つの世界を自分たちの世界から排除できると信じている。幼児が「自分が目をつぶれば、自分は誰からも見えなくなる」などと考えるのと一緒である。なにしろ彼女たちは物心がついてほんの数年。実際のところまだ生まれてすらいないといっても過言ではないような存在だ。

見てほしい人にだけ見てもらう、見てほしくない人には絶対に見てほしくない。それはもちろん彼女たち自身が世の中はかくあるべきと信じているというだけの話であり、そんな彼女たちの流儀を誰かに強いることは、本当はできない(そのあたりのことは保護者が噛み含めるように教えるべきだろう)。

しかしなんにせよ、彼女たちの認識はかようなものである。大いなる理不尽だが、愚かなものの愚かさを非難しても詮無い。ならば彼女たちの無邪気さに対して採り得る選択肢はそう多くないだろう。彼女たちの願望通り、彼女たちのかくれんぼごっこに付きあって無視するか、世の中そんなに甘くないぞと嘗めまわすように見つめて彼女たちの不興を買うか、どちらかである。

彼女たちの意に染まぬ我々に、強いて彼女たちを見なければならない理由はなかろう。