そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

過剰な刑罰は社会に有害です

ハンムラビ法典に嗤われる感情的超厳罰主義 - ビジネスから1000000光年
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090213/1234501769

を読んで。

「出てきたらまたやってやる」という見出しだけ読めば、確かにひどいと思いますし、憤慨する人の気持ちは、ある意味わからないでもありません(実際のやりとりを見るといくぶん喜劇調ですし、証人に向けた威嚇かどうかもちょっとわからないのですが)。世間には、「犯罪者は一生刑務所から出すな」などと声高に叫ばれる方も多いようです。なかには、「終身受刑者を賄うコストを考えると死刑のほうがいい」などという人も。しかしながら、そういう人たちには、法学的な観点から「どれほど刑罰を重くしたとしても犯罪の抑止にはならないと考えられている」ということを指摘しておかねばなりません。むしろ厳罰主義は犯罪を助長することにもなりかねないのです、と。

 刑罰が残ぎゃく*1であればあるだけ、犯人は刑罰をのがれようとする。多くの犯罪はまさに、はじめの刑をのがれようとしてかさねられたものなのだ。

犯罪と刑罰 (岩波文庫) 87頁 ベッカリーア著・風早八十二・五十嵐双葉訳

罪刑法定主義を説いた古典です)

ちょっと極端な話をしましょう。例えば、窃盗で死刑になる社会があったとします。人のものを盗んだとき、誰かに見られたとしたら、犯人はどうするでしょう。ものを盗んだ時点で、かれは死刑になることが決まっています。だったら、目撃者を殺してしまったほうが、逃げおおせる確率も高まるのではないでしょうか?*2 窃盗で死刑にならないこの日本でも、「盗みを働いたときに顔を見られた」と殺人を犯す人がいるそうです。仮に窃盗で死刑になるのであれば、おそらくその傾向に拍車がかかることでしょう。

懲役数年ていどだった刑罰が、ある日いきなり終身刑、ということになったとき、それは決して犯罪の抑止につながらない――とまでは言えないかもしれません。リスクを考えて犯罪の実行を躊躇する人も少なくはないでしょう。しかし、突発的に――変な言い方をすれば、感情的に「やむにやまれず」罪を犯してしまう場合だってあります。一時の激情にかられたことで、のち逮捕されたら一生涯刑務所から出られないとしたらどうですか。理性より自制心が問われるジレンマに陥りそうです。某国では収賄で死刑になるそうですが、それで汚職が減るかというと、ぜんぜん減らないらしいですね。もしかしたら、その発覚を恐れるあまり、口封じとかいって人死にが起きることだってあり得るんじゃないでしょうか。単なる財産刑で済ませたっていいような罪なのに。

法には妥当性が重要です。「法は実力が決めるのだ」などと言って禁酒法のごとき法律が作られたとしても、下戸かソクラテスでもないかぎり誰も守りません。その法が妥当であると承認されなければ、なかなかうまくはいかないものです。そして「犯罪に対しては相応の刑罰を与える」というのが刑法の妥当性です。「相応しい刑罰」というのは、ちょと曖昧かもしれませんが、司法 Justiceは、「正義」とともに、「公平」も内包する言葉です。何が「公平」なのか、それを決めるのが市民というものではないでしょうか。刑罰は重ければ重いほどよい――では済まされません。司法参加するときも、有権者として投票するときも*3、そのことについて考えなくてはならないのです。

これくらいのことはわりと誰でも書いているとは思いますが、裁判員制度も始まっちまうし、大切なことだと思うので書きました。

ところで、モバイルはてなトラックバックからたどってきた場合は前段の雑文から表示されてしまうみたいですね。それでここまで読んでくれる人がいるかどうかはわかりませんがどうもごめんなさい。

*1:ママ

*2:窃盗と殺人で捜査の傾注の度合いが変わるかもしれませんけどね。

*3:例えば「犯罪者に厳しい罰を」なんて公約をかかげる人がもし法学部出身だったりしたら、その人はポピュリストか、さもなくば大学で何も勉強しなかったか、あるいはよほど奇矯な独自の学説を持った人だと思います。はっきりいって選ばないほうがいいでしょう。