そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

水戸黄門のもたらす浄化

 京都大学人文科学研究所の教授、金文京(57)は、水戸黄門の印籠と同じような存在が韓国と中国に存在することに気がつき、趣味で調べ本にした。
 東京生まれ、在日韓国人二世の金は、小さいころから家で韓国の文化に触れてきた。印籠と同じように平伏させる道具を持つ暗行御史あんこうぎょし)が、諸国を回る話を知っていた。
 三国志が好きで、慶応大学で中国文学を専攻し、京大大学院へ。研究するうち、水戸黄門と同じく身分を隠して諸国を巡る存在が中国でも古来あったことに気がつく。
 「中国でも韓国でも似た話なのに、お互いに全く知らない。その源はなんだろうと調べたら深みにはまって」
(略)
 「自分たちでなく、上の、中央の権威を借りて解決する体質が東アジア全体にある。中央集権的な官僚体制の体質です。最高権力者は自分たちのことを理解しているはずだと。周りの人間が悪い、天皇や皇帝は悪くない、と」
 金は言う。「水戸黄門はたまたまいい人だから万事解決ですが、本質的には危険な話です。日本人はそれにあまり気づいていない」

ニッポン人脈記「黄門は旅ゆく(10)」朝日新聞東京版夕刊2009年11月24日4版 

という記事を読んで、ちょっと思考が脱線した。

たしかに水戸黄門に登場する悪者といえば、どんなに偉くてもせいぜい次席家老止まり。筆頭家老やお殿さまは「いい人」で、黄門は、悪家老、悪目付、悪奉行に超越する良識ある指導者を諭し、内々に処理するよう申し渡すことがしばしば*1。藩が改易になったりするようなことは決してない(幕府側からすれば「おとりつぶし」の絶好の口実になるはずだが)*2。そういえば光圀とあまり仲がよくなかったらしい綱吉も『水戸黄門』の話の中では「いい人」になっているし、悪役最高位の柳沢吉保が止めを刺されたりすることもない。

そのあたり、全体的なお約束としての「中央の権威を妄信するアジア的体質」という考えについてはとりあえずさておこう。金教授と同じような世代であった父が若いころ、田舎の老人の集会所に取材に行ったら、皆がみな拳を握りしめ、固唾を飲んで水戸黄門を見ていた――というようなことを嫌悪感も露に言っていたことがある。

「正しき権威によって庶民が救われる」というような無責任な言説はたしかにあるのだが、父の語った水戸黄門で手に汗握る老人たちのエピソードを思い起こすに、「中央の権威」とかいう以前に、むしろ東野英次郎演じる「田舎じじい」が、実は……というドラマツルギーのほうが、年輩者のカタルシスになっていたのではないか。老人が活躍するような物語はそうそうない(『三匹のご隠居』とかいう時代劇があったが、あれはあまりにも荒唐無稽すぎた)。若い助三郎も格之進も「自分」を立ててくれるし。

「周囲から軽んじられたキャラクターが、実は権威を内包している」という設定は、その露見によって周囲の扱いが180°変わる、というところに面白みがある(「兄が警察庁刑事局長」の浅見光彦もそう)。小公女セーラが父という財政的権威を失い、周囲からひどい扱いを受け、そして限界に近いところまで追いつめられながら、(幸運によって)権威を再び獲得し*3、周囲が再び平伏するというところがカタルシスなのだ。「日々抑圧されている自分に、周囲の知らない隠された力(の可能性)がある」というような、わりとありがちな夢想の代償となるのである。

戦争に関与した親世代・祖父世代を嫌っていた父からすれば、戦争を推進した「権威への無自覚さ」を自己批判するどころか、それがいまだ有効であるという状況に対し、「江戸時代を舞台にした、ただのファンタジー」というふうに割り切れなかったのだろうが、老人の娯楽作品の受容も、案外そんな子供っぽいものではないだろうかと思うのだ。

*1:代官の時は幕府に報告しているんだろうか?

*2:本記事のコメント欄参照:トクメイさんから指摘があったが、「決してない」ということはなかった。ただこれは展開やお約束の定まっていない初期の話であり、本稿の趣旨に影響はないものとして、このままにしておく。

*3:セーラは善行のゆえによって救われたわけではない。再獲得した権威は生得的な「父の遺産」であり、セーラの業状は考慮されていない。キリスト教倫理が物語の基礎にあり、あれは善因善果なのだ、というなら別だが。