そこにいるか

個人的な体験、その他の雑感

O・ヘンリー「千ドル」の結末について、同作者「運命の衝撃」と絡めて

■以下前置き(やや長め)~

小学生高学年くらいから少し背伸びをして洋楽を聞き始めるようになった。歌詞カードの対訳と辞書を頼りに原文を眺めていくうちに「ここはこう訳したほうがよいのではないか、解釈がまちがっているのではないか」と生意気なことも考えるようになる。

その関心と努力が持続すれば、英語を究め何らかの専門家になっていたかもしれない。あいにく飽きっぽく根気もないので、そうはならなかった。英語の成績にもたいして貢献しなかった(英文和訳に関してだけは、割合ほめられた記憶もあるが)。

長編小説を読み込んで訳すだけの技術や意欲はないが、複数の訳を見ながら、また原文を参照しながら、英文がどのような日本語に変化しているか見比べるのは面白い。囲碁や将棋のアマチュアがプロの打ち筋を追いかけるようなもので、趣味と言っていいだろう。

「ここはこう訳したい」という思いから生まれた成果物も多少はあるが、著作権の問題から公開できないものも多い(とくに歌詞は)。そういうわけで、公開してもさしさわりのない、亡くなって100年くらい経つ作家の短編小説をほんのささやかに投稿しているブログがある。

https://islecape.exblog.jp/

サキとO・ヘンリーしかない。フォークナーとシャーウッド・アンダーソンあたりを足してもいいかな、でもちょっと陰鬱かなあとか思いつつ。なおアクセス解析を見ると、もっとも人気があるのは圧倒的にサキの「開いた窓」である(https://islecape.exblog.jp/9426729/)。

そんななか、

~前置きは以上。以下本題

O・ヘンリーの「千ドル」の結末について、疑問を抱く人が調べまわっている形跡をみつけた。「今でしょ!」のフレーズで有名な林修講師が、テレビでこの短編に好意的に触れたことがあるようだ。2年ぶりの記事でまたしても前置きが長くなったが、少し思うところがあるので書くことにする。



※これから書くことは、O・ヘンリーの以下2短編の既読が前提である。

・千ドル https://islecape.exblog.jp/9704671/
islecape.exblog.jp

・運命の衝撃 https://islecape.exblog.jp/30004179/
islecape.exblog.jp




「千ドル」も「運命の衝撃」も、裕福な“おじ”から好きなだけの小遣いを与えられていた主人公が、収入のあてを失い将来の見通しが立たない状態に陥ったところから始まる。登場時は、お金がないわりに両者とも泰然としたものである。

しかし結末は異なり、「千ドル」の主人公ジリアンは、自分が継承できることになった5万ドル(3億円1.5億円*1)を、特に親しいというほどでもない知人の女性に譲り去っていく。一方、「運命の衝撃」の主人公ヴァランスは、勘当を許されて300万ドル(200億円100億円)かあるいはそれ以上の富の継承者に復帰できる(させられる)ことを知り、ショックで気絶するというオチだ。


まず「千ドル」を具体的に見ていこう。ジリアンは使途を報告する義務のある遺産1000ドルを受け取る。一生遊んで暮らせる額ではない(600万円300万円ほど)。ちょっと頭を働かせることすら好まない彼は「使途の報告」すら重荷に感じ、おじの庇護を受けていたミス・ヘイデンに1000ドルをそっくりそのまま譲ることにする。

ところがそれを弁護士に報告しにいくと、1000ドルの使い方次第では追加の遺産5万ドル*2を継承できると告げられる。5万ドルあれば取り崩していっても利子収入でも何不自由なく暮らせる(ただし贅沢三昧とまではいかないだろう)。追加遺産の条件は:よいことに使えば自分に5万ドル/ろくでもないことに使っていれば何もなし(5万ドルはミス・ヘイデンに渡る)。

頼るものをなくし、とくに資産もないとおぼしきミス・ヘイデンに1000ドルを贈ることは善行の部類に入るだろう。ジリアンは報告書を読まれる前に取り返し、「競馬で浪費した」と弁護士に告げて気楽な調子で去っていく。追加遺産はミス・ヘイデンのものになるはずだ。

「運命の衝撃」のヴァランスは、結婚したい相手がおじの気に入らず、話がこじれて勘当されてしまう。無一文であてもなく公園に行き、浮浪者・アイドから話しかけられるが、彼は過去に勘当された自分の面識のない従兄弟だった。しかもヴァランスの代わりに遺産継承人としてアイドが復帰する話が進んでいた。

にもかかわらず、莫大な相続を前にアイドは正体不明の恐怖で怯えきっていた。金を受け取る前に馬車に轢かれるかもしれないし、石にあたって死ぬかもしれない、そう思うと何もかも恐いというのだ。ヴァランスは自分が失った大金の受取人を下心なくいろいろ親切に世話し、なだめる。

そうして翌日弁護士のもとにいくと、アイドの財産継承は取り消しと告げられるのである。するとどうだろう、アイドはたちまち元気を取り戻し、捨てぜりふを吐いて悠々去っていく。ヴァランスは許されて元の立場に戻れると聞かされ、その場で気絶する。


表層的に見比べると、「運命の衝撃」については「色々あったけどなんとかなった、よかったよかった」で納得できなくもないが、「千ドル」の結末に至るジリアンのふるまいは少し理解が困難だろう。

「運命の衝撃」のもうひとりの主人公ともいえる浮浪者・アイドのことを考えてみよう。ヴァランスの代わりに300万ドルという途方もない金を手に入れることになっている男だが、何不自由ない暮らしが約束されているはずなのに恐怖で震えている。ところが、相続が「なかったこと」になるやたちまち元気を取り戻し、それまでの頼りなげな姿が一変、不遜な態度で胸を張って去っていくのである(アイドが恐れていたのは「300万ドルの約束が反故になること」ではなく、あくまで「300万ドルを手に入れる前に自分の身になにか起こること」だったというのも指摘しておきたい)。

ジリアンは、前半はヴァランスと同じ切符を持って登場し、最後の最後にアイドとなって退場するキャラクターなのである。そしてヴァランスは、アイドやジリアンの境地に至る寸前に、莫大なお金に追いつかれ捕われてしまうキャラクターだ。

ジリアンがミス・ヘイデンに1000ドル送った別れ際に、唐突に愛の告白めいたこともしているが、「ミス・ヘイデンにお金が渡るなら、その娘と結婚すれば万事めでたく収まる」といったような読みかたを牽制するための作劇上の都合なのではないかと感じた。ジリアンは、将来がなにも見通せない無一文として、資産家となったミス・ヘイデンから安易に救済される可能性のないまま退場しなければならなかったのだ。

彼がその後に大成できたかどうかについては、やや心許ない。オールド・ブライソンのアドバイス通り牧羊場に行っただろうか。ニューヨークで遊び呆け、面倒くさがりで、根性もあまりなさそうな男なのである。とはいえ最初の1000ドルの押しつけが善行というよりただの投げやりだったのに比べ、そのあとの瞬時の決断はとっさの判断としても上出来の部類に入りそうだ。比較的あかるく希望的な結末を描くことの多いO・ヘンリーからすると、口笛を吹きながら陽気に去っていくジリアンの姿は、将来の幸福を予見させる結末のつもりだったのではないだろうか。

これは発展し続ける20世紀初頭のニューヨーク、アメリカが生み出した物語である。都市化が進み、開拓時代の(白人たちの)ロマンが理想化されていく過程にある時代だ。与えられたもので何不自由なく暮らしていくことは、「ただ単に生きているだけ」であり、自分の力で自由に生きること、それこそが「本当に生きていること」である――という価値観が多分にあるであろう。自らの力で運命を切り開く自信とともに。

それはアメリカの台頭とともに陰りゆくイギリスで生を受け、その零落していく国家に殉じて死んでいったサキならおよそ書かないような楽天的な結末であり、おそらく今の日本でもあまり理解されないのではないかという気はする。そして一方、先述の林修講師のように人生に悩んだ末に自分の道を見つけた人(Wikipedia情報)には好もしく思える物語でもあるのではないか、とも。



2019年5月27日追記:
――というようなことを数ヶ月前に書いていたのだが、先日この作品(千ドル)の解釈についてブログで考察されていた方がいて(拙訳や本記事にも言及があった)、主にジリアンの動機に関しての記述を興味深く読み、また自分で訳した「千ドル」本編も見返すうち、触発されてもう一つ頭に浮かんだことがあったので記しておきたい。

言及いただいた先方の記事では、ジリアンは1000ドルという微妙なお金をいかに(少ない労力で)有効に使えるかというゲームに興じていたにすぎないのではないか、おじの意図を汲んで改心したかのような一見ハートウォーミングな話のようで読後感爽やかだけど、実際のところジリアン別に更生したわけでもなくね?(意訳)というようなことを書かれている。

そうしたジリアン自身の動機については、僕自身(O・ヘンリーの話の運びやオチのつけかた、林修講師の受けたであろう印象についてを主眼にしていたため*3)まったく考えてもみなかった、欠けていた視点だった。しかし言われてみれば、原文を精読した立場から見ても確かにありそうな話である(ジリアンの将来にますます暗雲が垂れこめているな)。

ジリアンは、高価なプレゼントをもらい慣れているロッタ・ローリアや、1785ドルもの貯金を持つ盲目の鉛筆売りに1000ドル渡しても無駄になると判断し、馭者の投資話は(おそらく)面倒だからと話も聞かず、そこまできてようやく(オールド・ブライソンに聞かれるまで)存在を忘れていたミリアム・ヘイデンに千ドルを譲ることを思いつく。ジリアンがミリアム・ヘイデンに関心をまったく持っていないのは明らかだ。

ここで、物語のトリガーである「おじ」のことも考えてみよう。「ジリアンに見込みがあれば5万ドルの遺産、見込みがなければヘイデンの娘に5万ドル」という条件づけには、(ルカ福音書の放蕩息子ならぬ)放蕩甥の悔悛を願うおじ心だけでなく「“見込み”がある男は、身寄りがない娘を放っておいたりしないはずだ」という隠れた意図を感じさせなくもない。

しかしながらそもそも当事者同士が特段の同情も共感も持ち合わせていないのである。ましてや愛情などあろうはずもない。ジリアンもそうなら、ミリアム・ヘイデンも同じだ(ジリアンの“告白”にごめんなさいしながら1000ドルをあっさり受け取る描写…)。

登場人物たちがそれぞれ思いやりに満ちた関係で結ばれた理想的な善男善女であったなら「もっといい話」にもなるだろうに、微妙に自己中な人間が各々わりあい雑に適当に振る舞いながら、しかしなんとなく爽やかっぽいお話になりましたよ、どうですかね?的なおかしみ…という解釈もできるわけだ。


最初に本記事(このエントリの前半部分)を書いたときもそうだが、「この読み方が絶対の正解だ」などと言うつもりはもちろんない*4

作品を完成させるのは創作者ではなく究極的には鑑賞者である。本はただ物質にすぎず、読者が読むことではじめて作品となる(作者が「こういう意図で書いた」と言うとしても、それは「最初の鑑賞者」としての作者の認識がそうであるということにすぎないのではないか)。それぞれの人生を生きる読者が、同じ本を読みながらもそれぞれの個性と経験でもって作品を完成させる。さらに言えば、それぞれの読者にとっても、そのときどきのタイミングによって受け取る解釈や印象が変わることは大いにありうる。それはつまり作品が「再読に堪える」ということであろう。今回ありがたいことに別の人の視点を得ることによって、僕自身この「千ドル」という作品の新たな一面を認識することができたので、ここに記す次第である。



あと書くところがなかったので最後に一言。執事と家政婦にももうちょっとお金やれよ(まあ次の仕事はあるだろうけど)

*1:※2019年5月31日修正:当初、翻訳に注記して「1000ドルは約600~700万円」などと書いていた。これだと1ドルを考えたとき6~7千円ということになり、やや過大な感じがあったため半分にした(ただし、当時は金本位制で金1.5gが1ドルとされていたため、金1gが5000円くらいになっている2019年5月現在、1000ドルは750万円ということにならなくもないような気はする)。これについては別稿を起こす予定である。

*2:正確には「5万ドル相当の債権」

*3:だいたい林修講師がどう解釈しようが別によいではないか、という気はするが、そもそも「今でしょ!の人が言及したから読まれているようだ」というのが話の枕なので…。

*4:「実はジリアンはおじだけではなく両親からも相当な遺産をもらっている」とか、「ジリアンは作者や読者さえも騙しおおせたが、実はミスヘイデンに好意を寄せており、それでいて自分と結ばれることはないという諦念も抱いている」という可能性だってゼロではない。